多様性を受け入れるってことが、人と共に歩むってこと。 | キンジの自分軸哲学

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~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

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どうも皆さん、

キンジです。

 

 

 

大体、

普通的、一般的に考え見ると、

 

大手に忖度するとか、

多数決に忖度する事が、

「人と共に歩む。」って捉えるのが、

所謂、普通だとは思いますが、

 

今回は、

 

多様性を受け入れる=少数派からの視点からの、

「人と共に歩む。」って事をテーマに、

考察して行きたいと思います。

 

 

 

 

まず最初に、

 

理想主義、自己満足から始める人がいる一方で、

その、

理想や自己満足を引っぺがす事を、

目指す人達も存在するって事が、

 

所謂、

 

両極を意識した考えとはなります。

 

 

また、

大抵の、

 

その、理想や自己満足を引っぺがす事を、

目指す人達ってのは、

ビジネス主体の人でもあり、

 

それによって、

妥協点を模索しているか、

もしくは、

 

断り文句を明確化するプロセスとはしているものではありますが・・・・、

 

理想や自己満足から始める場合においては、

目先のお金ど〜こ〜よりも、

 

その理想や自己満足を持ってして、

その妥協点や断り文句を、

跳ね除ける力ってものが、

そもそもとして必要だし、

 

まぁ、

妥協点と言えば、

聞こえはいいが、

 

相手は、そのまんま、

断り文句を明確化する事を、

目指してくるという見解を持っていて正解だし、

 

そもそもとして、

 

その理想や自己満足を否定しない形態で、

妥協案ってものは、

そもそもとして存在しているものだし、

 

理想や自己満足ってものは、

その活動自体の生命線でもあるから、

決して、天秤にかけない事が重要でもあるし、

 

天秤にかける時は、

その相手を突っぱねる時と理解しておいた方が、

良いし、

 

その心意気で応じる方が良い事でしょう・・・・・。

 

 

 

また、

何事のプロセスにおいても、

ゲーム性や難易度調整ってものが、

大事ではあるけど・・・・、

 

ホンマに誰でも出来るような、普通のゲームベースだと、

誰でも簡単に真似できてしまうし、

 

ビジネスとしては、パクられ易くもあり、

 

ゲーム性って言うのであれば、

あまり、誰しもが出来ないような、

希少性があるスキルを持ってして、

 

ゲーム性を描く=応用、流用した上での、

ゲーム性を考慮した方が良いし、

 

ゲーム性って概念は、

実際に、ゲームすらしていない人にとっても、

謳い易いから要注意でもあるし、

 

ストーリー性とかゲーム性等において、

キャラクターや主人公ってものが存在してはいますが、

 

主人公ってものは、

原則で言えば、

 

成功者、インフルエンサーや、組織の代表者って事だし、

 

もしくは、

 

未来視点的に、そう成る前提の人の事でもある。

 

 

 

まぁ、それでも、

個人で言えば、

 

自分自身の主観ってものを、

完全無視は出来ない訳でもあり、

 

主人公を中心とし、

尚且つ、

 

その周りを固める、強キャラでもあり、

名脇役足りていれば、

 

これまた原則的に言えば、

 

納得は勝ち取れるだろうから、

 

主人公的ポジションってものは、

他に取れる人(動物?)がいるのであれば、

 

譲る方が、調子に乗り過ぎなくて、

理性をキチンと活用出来るものでもある。

 

 

それを、

「100%の自己満足を返上し、

自己成長の余地でもあり、変化でもあり、進化の余地を残す。」

とも言うし、

所謂、

 

「人生のゴール設定を、更新し続ける。」という、

コミットともなるし、

 

人生の主人公は、別に個人から見れば、

何時も自分ではあるから、

 

その上での、

満足感、納得感を考慮すると、

 

最適な人物がいれば、

場当たり的と言うか・・・・・、

 

その場においての主人公ってものは、

何時でも譲って問題は無いが、

 

だからこそ、

 

最適な人物を選別する必要があるし、

 

最適な人物がいなければ、

 

主人公が不在って事も、

当たり前に存在するが、

 

例え、そうであっても、

コンテンツの場合においては、

視聴者=受け手が主人公ではあるし、

 

そう見る事によって、

 

自分自身のコンテンツってものが、

出来上がって行くし、

 

それによって、

 

自分自身の役割でもあり、

取り得るべき、強キャラでもあり、

脇役ってものが見え、

 

視聴者=受け手=主人公もそうだろうし、

 

その、

視聴者=受け手=主人公に関係する、

 

脇役でもあり、強キャラとしての在り方ってものもまた、

創造されて行く事でしょう・・・・・!!

 

 

 

ここでまた、

音楽の話にはなるのですが・・・・・、

「音楽における人としての成長とは??」

一体、どのような事を指し表すものとはなる事でしょうか・・・・・??

 

 

 

そもそもとして、

音楽は原則的に、元から存在するような印象が存在するものでもあり、

 

それ即ち、

 

天性的なものを引き出して行くようなイメージで、

新たなフレーズでもあり、

新たなアプローチってものが、

生まれる=引き出されて行くようなものでもありますし、

 

楽器の演奏においても同じようなものでもあり、

 

自分自身の根源から、新しいフレーズでもあり、

アプローチを、

生まれさせる=引き出す事を指して、

 

新しいフレーズでもあり、曲を覚えて行くと言う、

印象に落ち着くものではあるのです・・・・・!!

 

 

 

だからこそ、

無理をしガチになってしまうものでもあり、

 

だからこそ、

肉体的なマネジメントってものを、

必須にしておかないと、

ある種の、

 

命を削って=寿命を削ってでも、

音に没頭しガチともなり得るものでもある事でしょうね・・・・・・。

 

 

 

それの対策としても、

 

楽器なら楽器の演奏に使われる・・・・、

 

筋肉の筋トレという意識を持っておかないと、

 

筋をイワシて、腱鞘炎とか、

喉を痛めたりとか、

 

ある種の、

 

肉体の限界以上を求めて、

体を壊す原因ともなりかねないのです・・・・・・!!

 

 

だからこそ、

 

自分ってものが重要になり、

自分自身の肉体マネジメントを持ってして、

 

その音楽をマネジメントする必要性があるし・・・・、

 

それは、

 

ナンバーワン的な、

完璧主義は手放すけれども、

 

オンリーワン的な、

誰も真似出来ないアート性は、

発揮する事が、可能にはなるし、

 

またその為にも、

 

いくら肉体的マネジメントが必要だとは言っても、

 

歌い手なのに、筋トレベースとか、

ギタリストなのに、筋トレベースってのは、

ちょっと違うとは思うんですよね〜・・・・・。

 

 

 

歌い手なら、

歌い手としてのトレーニングをベースにすべきだし、

 

ギタリストなら、

ギターを演奏する、練習するって事、

もしくは、

 

そのパフォーマンスとしての、

オリジナルダンス(ただ乗っているだけかも知れない。)から、

トレーニング化し、

それをベースとするべきだし、

 

それ即ち、

 

自分軸をベースとして、トレーニング化し、

RPGゲーム化し、

肉体的にも、マネジメントして行く必要性があるって事だろうし、

 

その逆に、

自分軸が無いのであれば、

 

筋トレってものは、

マネジメントにおいて、決して、

無視できない方法論とはなるし、

 

自分軸が何かのスポーツの場合も、

筋トレとかトレーニング自体が、

自分軸の代わりになると言うか・・・・・、

 

筋トレ自体が自分軸の仲間入りをする事も、

起こり得る事でしょう・・・・・!!

 

 

し、

自分軸があっても、

 

そのサブとか、強化したい筋力が明確に存在していてこその、

筋トレって位置付けにはなるのです。

 

 

また、

音楽の乗り的に言えば、

 

トレーニング、筋トレ的な配慮を考慮して、

成長して行くってことを考え見ると、

 

乗りは全て、前乗りで良い事でしょうし、

その方が、

 

速筋を意識する事によって、

 

小手先だけじゃ無く、

全身のバネを活用する必要性が出て来て、

筋トレ感ってものは増す感じではある事でしょう・・・・・・!!

 

 

し、

文章自体が、

自分軸って事はあり得ないって事も、

腑に落ちるのでは無いでしょうか・・・・・??

 

 

 

文章なら、

「何を行っている人が、どんな実績があって、何を語っているか??」

って事が、

自分軸たり得るけど、

まぁ、

 

何を行っているかの証拠みたいなもんがあれば、

それで自分軸的文章は書けるのでしょうし、

 

その専門性の高さを持ってして、

抽象度ってものは高めて行けるだろうし、

 

「ただの素人のノーガキ。」は回避出来得る、

響く人の出る文章にはなるし、

 

なんだったら、

専門用語を多用したり、

マニアックなネタを厳選すれば、

 

その専門性を持っている人にだけ、

理解可能な文章にも出来るものではあります。

 

 

また、

 

自分自身の、

解像度を高めた上での、

適当さ=アート性は、

まず、コピーする事が困難になるし、

 

その上で、

自分自身にとっては、

 

意外と、簡単に再現する事が可能でもあり、

意外と、簡単に、同じ趣向のアプローチを繰り返す事が可能な、

アドバンテージともなり得るものでもあるのです・・・・・!!

 

 

・・・・・が、

それもこれも、

 

筋書きとしての、

フレージングでもあり、

楽曲としての良さってものが、

ありきでこそ、

 

そのアート性を、活用する事が可能にはなるし、

単純明快に言えば、

 

良い曲が出来上がったならば、

そこには、

 

自分でこそ、自分ならではの、

アート性を発揮しておかないと、

もったいないものでもあり・・・・・、

 

完璧主義だと、

自分以上に、完璧に出来てしまう人ってものが、

いずれは現れる事にはなってくるのでしょうね・・・・・。

 

 

 

まぁ、

僕自身の音源データで言えば、

本物(オリジナル)が一番であり、

 

また別物の、

アート性ってものを模索しているものではありますが・・・・・、

それでも、

 

人の曲をカヴァーするって事は、

本物リスペクトの姿勢の証明にはなりますよね〜(笑)。

 

 

ま、

ファンで言えば、

地位が高いのか、低いのかは、

イマイチ解りませんが・・・・(苦笑)、

 

ギリギリファンである証明にはなるのかと。

 

 

もしくは、

異端だけれども、一応ファンって感じでしょうか(笑)。

 

 

また、

個人的に言えば、

 

「良い曲。」ってものは、

聴いて良い曲ってものは、

勿論、世の中には一杯あるだろうけど、

 

プレイヤーとしては、

「良い曲。」ってものは、

聴いて良いは勿論の事、

当たり前だけれども、

 

それプラス、

 

弾いてトレーニングになる、

良いエクササイズ、良い筋トレになる曲ってものが、

所謂、

良い曲の部類に入ると思う次第ですね。

 

 

まぁ、

聴く主体であったとしても、

 

オリジナルダンス(ただ乗っているだけとも言う。)が、

良いエクササイズになる、良い筋トレになるって事が、

「良い曲の部類=レベルの高い曲になる。」のは同じだと思うし、

それは、

ただ単に、

 

「音だけの良さプラスの付加価値(負荷価値)=頑張っている感。」にもなるし、

価値観を定義する上での、

ビルドアップ要素にもなり、

 

そこに人としての成長要素がある=楽しいって事にも繋がり、

 

その音には苦しみも、楽しみも存在して行く事になるし、

だからこそ、

 

プレイヤーとして、フレージングを考慮する際には、

ただ単に、

 

アート作品的な側面だけじゃあ無く、

エクササイズ要素、筋トレ的要素を考慮して、

楽曲として仕上げる必要性もあるって事なのでしょう・・・・・!!

 

 

また、

 

音楽とか、楽器の演奏ってものは、

これまた個人的に言えば・・・・・、

人としての成長要素も無い事には、

 

テクニックを磨くとか、演奏が上手くなる事を、

目指して行ったところで・・・・・、

 

そのテクニックを磨くとか、演奏が上手くなる為の、

プロセス自体が、

何かしらのエクササイズ効果なり、

筋トレ効果に繋がっているならまだしも、

 

ただ単純に、上手くなるという風な、

小手先のテクニックを追求する姿勢だけだと、

 

「それが出来たらなんなん??」っていう風な、

虚無的な思いもまた、

拭い去る事が出来ないものでもあるからこそ・・・・・、

 

エクササイズ要素、筋トレ的な要素ってもので、

補完する必要性があるものなのです・・・・・・!!

 

 

また、

一発どりの録音、

ライブ的な演奏で言えば・・・・・、

ある意味、

 

たかが3〜5分程度の演奏であったとしても、

ハッキリ言って、ミスは無くなりません・・・・・(苦笑)、

 

が!!、

だからこそ、

 

またチャレンジする理由にもなるし、

 

ノーミスがど〜こ〜よりも、

そのチャレンジのプロセスの方にこそ、

人間的成長=筋トレ的成長=エクササイズ的成長があるのかと。

 

 

 

また、

 

クラシックや音数が少ない楽曲の方が、

アート性に偏った音楽とは言えるけど、

 

メタルとかハードロック、

はたまた、8ビート中心のビート系の音楽とかは、

より、エクササイズや筋トレに偏った、

 

ある意味、

 

健康的な健全的な音楽であるとも言えるし、

 

エレキギターは、

弦を弾いてボディ(木材)を鳴らす楽器ではあるけど、

 

そんなのは当たり前でもあり、

 

弦を弾く事によって、

自分自身の肉体(主に筋肉)を鳴らす(負荷を掛ける)楽器と言う認識が必要でもあり、

 

その為には・・・・・、

小手先のチョロチョロした動きに、

スピードとパワーってものが必要になり、

 

スピードとパワーを出す事によって、

主に、

 

上半身中心の筋肉に負荷を掛けるものでもあるし、

 

もっとスピードが必要になれば、

全身のバネを使って、

スピードを出す事にもなるし、

 

タメを作り出すには、

そのスピードの慣性を、押さえ込むだけの、

止める負荷ってものも必要になるのです・・・・・・!!

 

 

上記でのパワーってものは、

あくまでも、

 

弦をキチンと鳴らすと言う意味での最低限のパワーではあるし、

ま、どちらかと言えば、

 

パワーよりもスピード重視でこそ、

弦はキチンと鳴るのではあるけども、

 

それが、連続したフレーズであり、

スピードが早くなると、馬鹿には出来なくなってくるものでもあり・・・・・・、

 

乳酸を溜めて、

連続して動ける限界値には、

やろうと思えば簡単に、

ものの数分で辿り着く事が可能なものではあるのですよ・・・・・・。

 

 

まぁ、

同じく数分休めば、

また繰り返しては行けるものではあるけれども、

 

その短期的限界値と中期的限界値、

はたまた長期的限界値を高めて行く事が、

筋トレ的、スポーツ的ではあると。

 

 

 

また、

スラッシュメタルとかデスメタルや、

プログレやテクニカル過ぎるメタル系になると、

 

ある種の、

アスリート的な音楽にはなりますし、

 

それこそ、

 

その細かいテクニックが出来てど〜こ〜じゃあ無くて、

 

その細かいテクニックが出来るまでのプロセスにこそ、

その肉体的成長をベースとした、

自己成長が存在するのでしょうし、

 

テクニックが出来ているから偉いとかじゃあ無くて・・・・、

 

その反復のプロセスにこそ、

価値ってものが存在しているのでしょうし、

 

その価値ってものは、

自己実現欲求や、自己超越欲求に、

結び付いているものなのです・・・・・!!

 

 

 

ここで少し話は変わりますが・・・・・・、

 

絵描きとか、文学の場合だと、

 

正真正銘、アート性だけを追い求めたりして、

それに命を投げ打つ場合も、

多々、存在し得る事でしょう・・・・・。

 

 

 

だからこそ、

 

人間的成長=肉体的成長を、

半分無理やりにでも、組み込んで行かない事には、

ある意味、

 

死ぬ為、もしくは、死に場所を模索する為に、

その芸術活動を行う事になって行くので、

 

要注意ではあるし、

 

人間的成長=肉体的成長自体が、

 

演奏でもあり、活動を行う際の、

楽しさ=モチベーション=エフィカシーにもなる事でしょう・・・・・!!

 

 

 

まぁ、

モチベーションの方は、

 

締め切りとか、会社の意向とかにはなってきちゃうのでしょうが。
 

 

 

また、

ある意味、

 

ゲームをするって事も、

文章を書く、もしくは、

音声を撮るって事も、

絵を描くのと一番似ているし、

 

だからこそ、

 

それだけだと、

人間的成長=エクササイズ要素、筋トレ的要素が無いものではある事でしょう・・・・・・。

 

 

 

だからこそ、

応用、流用、シェアする必要性があり、

 

個人的な主観的見解だけで言えば、

それだけだと、

アート的ではあるけど、

 

「だから何になる??」という風な、

虚無感を拭い去れないものではあるのです・・・・・!!

 

 

 

また、

そのアート性の高めの抽象度は、

 

降りてくる事によって、

あらゆる物事に、

応用・流用可能になってしまうものでもあるから・・・・・・、

 

尚更、

 

抽象度の階段、ステージの階段ってものは、

上がって行くのは困難だけども、

降りて行くのは、比較的簡単ではあるから、

 

「在りたい自分。」の体現や、

より、人間的、肉体的成長を求める行為によって、

抽象度、ステージを高めて、

日々の生活や、人生自体の難易度を下げる術を知った後に、

 

難し過ぎず、優し過ぎずに、

難易度調整をして、

 

自己満足でもあり、納得を勝ち取って行く事が、

重要にはなるのかと。

 

 

その為の手段ってものは、

千差万別ではあるけど、

 

何も無い人にとっては、

筋トレやダイエット的エクササイズってものが、

マッチングするし、

 

それを持ってして、

食事や睡眠等も、マネジメントして行く事になるし、

 

自分軸がある人にとっても、

結局は、

 

その要素ってものは、

組み込んでおく必要性があるし、

完全に度外視する事は不可能とはなる事でしょう・・・・・・!!

 

 

また、

ここで、

自己流と独学の違いについて、

ハッキリさせておきましょう・・・・・・。

 

自己流とは、

ハッキリ言って、適当に始めて行くだけでもあり、

目標等もあるかどうか微妙な状態。

 

 

独学は、

参考になるスキルを自分で学び取って、

常に、勉強して行くスタイルでもあり、

人生結局は、

 

誰かに師事を受けたとしても、

マネジメントまで行くと、独学ですよね・・・・・??

 

 

また、

「若いうちの苦労は買ってでもしろ。」って言いますが、

それって、

人間的深みを構築して、

 

所謂、

 

人間的魅力を高める為に、

苦労ってものをする必要があるものでもあり、

 

それによって、

「面白い在り方の人。」になるものでもあり、

 

もっと突っ込んで言えば・・・・・・、

 

老若男女はどれに当てはまるのかは解りませんが・・・・・(苦笑)、

モテる人になる為にある概念であるとは言える事でしょう・・・・・!!

 

 

が、

「若いうちの苦労は買ってでもしろ。」の、

苦労ってものは、

 

結局は、

 

「新しいチャレンジ。」そのものの事を、

指し表すと言っても、

過言では無い事でしょうし、

 

それ即ち、

 

「新しいチャレンジ。」そのものには、

リスクしか無いものなのかも知れないのです・・・・・・。

 

 

けれども、

その、

 

「買ってでもしろ。」の苦労を、

手に入れる事が可能にはなるのだと。

 

 

だからこそ、

 

完全なる新しいチャレンジなんてものは、

出来得る限り回避して、

 

既知の中の無知の領域に踏み入れて行くって事が、

結局は、

 

死ぬほどのリスクは回避した上で、

苦労をして行く為には必須にはなってくるのでしょうし、

 

三日坊主って言葉がありますが・・・・・、

三日坊主を繰り返し過ぎた人って言うのは、

 

苦労の数で言えば、

達人級の人物になっていても可笑しくは無いものかと。

 

 

 

まぁ、

 

その三日坊主ってプロセス自体が、

ある種の、

専門性となっており、

 

既に既知となっているのかも知れませんが、

 

それでも、

三日坊主で辞めれるからこそ、

 

続けて行けているって事はあるのでしょうね・・・・(笑)。

 

 

 

それならそれで、

 

自分軸としてのナニカを、

専門性として、

 

既知の領域から、深堀りし、

横展開もして行く事って言うのも、

その、

 

三日坊主の達人ってものと、

なんら違いは存在しないのでしょうし、

 

その方が、

既知の領域でもあり、

 

繰り返し使って行ける、

それだけでエクササイズ的、筋トレ的、ダンス的になるようなものが、

明確にあるって言う、

強みにはなる事でしょう・・・・・!!

 

 

 

その強みを使って行く事によって、

成長はして行く事が可能であり、

 

「新しいチャレンジ。」をして、

苦労する事=成長する事によって、

 

人間的魅力であり、

所謂、

 

モテ道をも、追求して行く事が可能ではありますけど、

 

それは、

計画的に、ゲーム性であり、

難易度設定を考慮して行く必要があるのかと。

 

 

 

人とはちょっと違った、

自分軸であり、背景、経歴を持っている人にとっては、

 

その違った上での、

マイナスな出来事を、ストーリー化して、

人に語る事に、意義であり、価値観が存在する事でしょう・・・・・!!

 

 

別に、

辛い話をそのまんま話す必要性なんて無くて・・・・・、

 

ストーリー化したり、

もしくは、

 

有名なストーリーに被せて話すってのも、

人と良い距離感を持って、

接する為には重要だし、

 

そのまんま正直に話した所で、

 

人とはちょっと違った、

自分軸であり、背景、経歴があるが故に、

 

決して、

 

同じ理解には辿りつかないだろうから、

人を敬遠する理由にもなってしまいガチではあるのです・・・・・・。

 

 

 

例え、

単純明快な、

ストーリー化が為されていたとしても、

 

完全に、人間を敬遠してしまうよりかは、

幾らかマシとも言えるし、

 

ある意味、

 

自分の為でもあり、人の為でもあり、

社会の為にも、

 

ストーリー化ってものは重要な要素にはなる事でしょう・・・・・!!

 

 

ま、

他と代わり映えが無い、

多数派の自分軸、背景、経歴の人は、

その逆に、

 

正直に話すって事の方が、

人の共感を獲得しやすいけれども・・・・・、

 

少数派とは、

決して、相容れぬ関係性とはなるでしょうし、

 

「それは自分軸とは思えないものにはなっている。」でしょうから、

 

そっちにとっても、

ストーリー化ってものは無視出来ないものにはなるのかと。

 

 

まぁだからこそ、

 

正直に話すくらいなら、

本質論として、語った方が、

 

ストーリー化もされ、

嘘も本当も含まれて行き、

 

ちゃんとした、

関係性に落ち着きやすいものだし、

 

人とは違った、

自分軸でもあり、背景であり、経歴を持っている人にとっては、

その本質論を構築する事自体が、

 

人の理解であり、共感を得る術ではあるし、

その、人の理解には・・・・・、

自分自身も含まれてくる側面もあるのです・・・・・。


 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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