自分の軸とは何か??その気付きのストーリー。 | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

yogesh moreによるPixabayからの画像

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

※前回予告した通り、

今回からまた改めて、

自分軸哲学を、リライト(再構築)して行こうと思いますので、

また改めて、よろしくお願いいたします。

 

 

 

自分軸と言いますと、

まぁ、

 

そもそもとして、

 

自分ってものが、自分自身では、

見えないものでもあり、

 

またそもそもとして、

 

自分ってものについて、

自分自身で語る事自体が、

 

ある種の、

 

タブー化されているが故の、

 

自分軸でもあり、他人軸であるとは、

言えるのでは無いでしょうか・・・・・・・??

 

 

 

 

即ち、

 

自分ってもの自体が、

 

自分自身では見えにくいものでもあり、

 

またまた、

 

自分ってものを、

自分自身で語るって事自体が、

そもそもとして、

 

タブー化されているものでもあるのですが・・・・・・、

 

そのタブー化されている原因として、

 

自分で語ると、

矛盾点ばかりが出てきてしまい、

 

そもそもとして、

 

自分を語っているつもりが・・・・・・・・、

その論点さえも、

無くなってきてしまうのが、

自分語りであるとも言える事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

だからが故に、

そこに必要となるのが、

 

媒介でもあり、

 

何か、軸となるような概念でもあり、

 

軸となるような、

経験が存在していてこそ、

 

そこに、

 

自分(じぶん)ってものを、

醸し出したり、

表現する事が、

可能になるものでもあるのです。

 

 

 

 

即ち、

 

そこに、軸となるものが存在してさえいれば、

 

それが自分軸か??

 

もしくは、

 

他人軸か??って問題さえ、

ど〜でも良い事なのかも知れませんし、

 

そもそもとして、

 

その表現している人ってものは、

自分であることが確かでありますし、

 

他人軸の場合においても、

 

人の言う事や、

人から教わった事柄を、

そのまんま、丸ごとコピーしない限りは、

 

そこには、

 

自分軸ってものが、

 

たとえ、片鱗であったとしても、

存在して行く事には、

なって行くものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

また、

そもそもとして、

 

人から教わった事や、

人の言う事を、

そのまんま、丸ごとコピーするって行為は、

 

何か、

物事を始める際には、

 

一番最初の段階であるとは言えますが・・・・・・、

 

その上達のプロセスを経て行く為には、

結局は、

 

自分なりとか、自分でこそと言ったような・・・・・・、

 

ある種の、

 

勝手気ままな行為でありながらも、

 

試行錯誤しつつ、

間違いを繰り返しながらも、

自分自身に、そのスキルを、

馴染ませて行く行為ってものが、

必要不可欠なのでは無いでしょうか・・・・・・??

 

 

 

 

即ち、

 

その物事を、

府に落とすとか、

 

習慣付けて、

自分の血肉とするって事ではありますが、

 

それは確かに、

 

その行動を起こす前、

そのアクションを起こす前までは、

確かに、

 

他人軸視点であった、物事ではある事でしょう。

 

 

 

 

・・・・・・が、

 

それを行動に起こした瞬間から、

ある意味、

 

それは自分軸視点の、

始まりでもあり、

 

その他人軸の、

一つの区切り目までを、

とにかく、

 

自分軸として、再構築して行くって事を、

 

何かのスキルを学ぶ時とか、

何かのチャレンジとして、行動する時に、

我々は、

 

当たり前に行っているものではありますし、

 

そのサイクルの、繰り返しをしているものではありますね・・・・・・??

 

 

 

 

勿論、

それは、

 

人によっては、

 

その他人軸の一つの区切り目までを、

自分軸として、再構築して行くってプロセスを、

 

同時に、

何個もしている人も存在するだろうし・・・・・・、

 

いや、

 

「私はとにかく、これを自分のものにするんだ・・・・・・!!」と、

 

一つに特化した上で、

自分軸として、再構築して行く人もまた、

中には存在する事でしょう。

 

 

 

その2パターンのプロセスは、

結局は、

 

自分(じぶん)ってものが、

そもそもとして、

 

主観的視点でもあり、

 

自分自身からだと、

存在しないものだからこそ、

 

そのプロセスを経て、

 

視覚化でもあり、明確化して行くものでもあり・・・・・・・、

 

これまたそもそもとして、

 

「何故、自分を知る必要性があるか??」

と問われれば、

 

「自分を知っていれば、応用性・流用性が出来上がり易くなり、臨機応変さが身に付くからである。」

と、

 

答えることが可能ではあります。

 

 

 

・・・・・・し、

 

孫氏の兵法でも、

「敵を知り、己を知れば、百戦危からず。」

と言いますが・・・・・・・、

 

敵の事なんて、

そもそもとして、

 

あまり知る気が無い方が、

直接的な、暴力的な戦いには、

発展し辛い側面がありますが・・・・・・、

 

だからとは言っても、

 

その戦いにおいて、

 

やられっぱなしとか、

白旗を挙げてばかりの在り方も、

頂けないものでもあり・・・・・・・・、

 

自分自身の、在りたい自分とか、

セルフイメージを護った上で、

より良く、右肩上がりで、

生きて行く為には、

 

直接的な、暴力的な戦いを避けた上で、

 

自分自身の、

土俵となりうる軸、

即ち、

 

代理的な戦場において、

 

自分自身の、闘争心なり、

サバイバル的な己との戦いを、

繰り広げて行く事が、

 

望ましい在り方とはなる事でしょう・・・・・・・・・!!

 

 

 

 

要するに、

 

完全なる敗北ってものは、

そもそもとして、

 

死が近づいてくるものでも在りますから・・・・・・、

 

生きている人間には、

不可能なものでしょうし、

 

だからが故に、

 

たとえ、

 

代理の軸を用意した上であったとしても、

 

勝ち負けど〜こ〜よりも、

戦い続けるって事が、

 

より良く生きて行く為には、

必要不可欠な要素にはなってくるのでは無いでしょうか・・・・・・・・??

 

 

 

 

それは要するに、

 

完全なる敗北ってものは、

 

その物事だけの問題で済むものじゃあ無くて・・・・・・、

 

その他の物事にもまた、

応用・流用されてしまうのが、

でもあり、

 

だからが故に、

 

サバイバル的な、根源的な視野の元において、

 

敗北を、敗北だけで、

済ましてはいけないものだと言う事実を、

 

忘れてはいけないものとはなる事なのでしょうし、

 

だからこそ、

 

その、一見、敗北に見える物事からもまた、

 

良きにつけ悪きにつけ、

結果を俯瞰する事により、

 

「どういう事実が在ったか??」って事を、

読み取る事が、必要にはなってくるものなのでしょう。

 

 

 

その事実は、

 

その敗北という名の、

ある種の、

 

ラベル付けでもあり、カテゴライズが外される事により、

 

中庸なラベル付けでもあり、

中庸なカテゴライズがされる事にはなってくるものではありますね。

 

 

 

その中庸なラベル付けでもあり、

 

中庸なカテゴライズされた物事には、

少なくとも、

 

未来視点でもあり、

また別の軸としての、

可能性が見えてくるものではありますし、

 

その可能性は、

 

実際に、

行動に移す事によって、

たとえ、

 

他人軸からの再スタートであったとしても、

 

自分軸が構築されて行き、

自分軸が構築されて行く=上達して行くものでもあり、

自分自身の血肉となる事により、

 

スキルが身に付くとか、能率だけの視点だけでも無く、

 

そこに含まれて行くのは、

 

世界観とか、ゲーム性のようなものさえ、

自分自身の血肉となって行くものではある事でしょうよ・・・・・・。

 

 

 

 

話が少しズレた感がありますが、

続けます・・・・・(苦笑)。

 

 

 

 

自分軸も他人軸も、

結局は、

 

客観的な視点では無く、

主観的な視点ではある事でしょう。

 

 

 

・・・・・・が、

 

自分軸は、

自分自身の、本音でもあり、情緒的な視点でもあり、

 

他人軸は、

自分自身の、役割を演じる為の、演技的な視点であるとは言える事でしょう・・・・・・。

 

 

 

 

即ち、

 

役割を演じながらも、

そこに醸し出されるような、

 

本音でもあり、

 

そこに醸し出されるような、情緒的な部分が、

 

自分軸哲学として、構築されて行くものであるとも、

言えますね。

 

 

 

そこには、

 

自分軸、他人軸、

両方の視野がある事により、

 

主観的な視点から、俯瞰的な視点にまで、

視野を広げる事が、可能にはなってくるのです。

 

 

 

・・・・・・・し、

 

俯瞰的な視点でもあり、

俯瞰的な表現が存在しているからこそ、

 

人と共有がなされるものであるとも、

言える事でしょう。

 

 

 

主観的な視点でもあり、主観的な表現ってものは、

基本的に、

 

共有とか、共感が出来たところで・・・・・・、

 

そこに意義は存在していても、

意味自体は存在しない事でしょう・・・・・・・。

 

 

 

即ち、

 

それは儀式的なものではありますが、

 

そこに見出す意味合いってものは、

人によって、様々な形態が存在していて当たり前でもあり、

 

その意味合いを共有する、

もしくは、

 

近づける為にこそ、

 

俯瞰的な視点があり、

俯瞰的な表現があり、

構造を、同じように構築して行く必要性が出てくるものとはなるのでしょうね。

 

 

 

 

またそれはハッキリ言えば、

 

そこまで構築するのであれば、

 

同じ意味合いを共有する必要性すら無く、

もしくは、

 

意味合い自体を、近づける必要性もまた、

無いものなのかも知れません。

 

 

 

ただ、

 

その俯瞰的な視点でもあり、

 

俯瞰的な表現でもあり、

 

構造自体を、自分自身の血肉とする=自分軸として、

再構築して、身に付けて行けば良いものでもあり、

 

その一番身近に感ずるであろう・・・・・・、

 

主観的な、動物的な共有でもあり、

共感ってものは、

 

色眼鏡をかけた上で、

行えば良いものでもあり、

 

それを切っ掛けとして、

 

自分自身の、俯瞰的な視点でもあり、

俯瞰的な表現でもあり、

構造自体を、構築していけば良いものでもあります。

 

 

 

 

即ち、

 

「芸の肥やしにする。」が如く、

 

自分自身の、

世界観や、ゲーム性や、

役割の演技に、

活用していけば、それで良いものなのかも知れませんね・・・・・(笑)。

 

 

 

 

・・・・・・・・が、

それでも結局は、

 

その主観的な視点の、

意味合いってものは、

 

やっぱりど〜でも良くて、

 

どちらかと言えば、

 

情緒的な、

「どのような感情が起こったか??」って部分の方が、

 

大切でもあり、

 

その感情を、納得が行くものにする為にこそ、

 

試行錯誤しつつも、

 

俯瞰的な視点でもあり、

 

俯瞰的な表現でもあり、

 

構造を構築して行く事には、

なってくるものなのでしょう・・・・・・・!!

 

 

 

し、

 

それに必要となるのは、

 

演技的、演奏的・・・・・、

もしくは、

 

ゲーム性のような、

 

芸術的、エンタメ的な視点でもあり、

 

もっと言えば、

 

芸術性、エンタメ性に繋がるようなスキルでもあり、

そのスキルの応用・流用性を持ってして行われた、

行動によって、

 

行動の履歴としての構造が、

構築されるものでもあり・・・・・・、

 

それ即ち、

 

経験によって、構造が構築されて行くって事なのでしょうね。

 

 

 

また、

それによって構築された構造ってものは、

結局は、

 

コンテンツ化しない事には、

可視化出来ないものとなり・・・・・・・、

 

その構造を、全部把握しているのは、

そもそもとして、

 

「全知全能感を持った、自分自身。」だけでもあり、

 

もっと素直に言えば、

 

自分自身でさえも、全部把握仕切れていないのが、

当たり前でもあり・・・・・・・(苦笑)、

 

その、

 

「全知全能感を持った、自分自身。」の概念のことを指して、

 

未来視点の自分自身でもあり、

真我とか言うのでしょうね。

 

 

 

まぁ、

その真我は、

 

自分の為には活用出来るでしょうが・・・・・・、

 

人には人の真我がまた、

存在しているものでしょうから、

 

その真我からの気付きは、

尚更、

 

言葉で表現ど〜こ〜では無く、

 

芸術的な、表現方法が、

必須にはなってくるだろうし・・・・・・、

 

その全知全能感がまた、

 

逆に言えば、

 

人の未来視点を侵害するとも言えますし、

 

それによって、

自分自身もまた、

 

誰かによって、未来視点を侵害される種まきともなってしまうだろうから・・・・・・・・、

尚更、

 

無闇に、

 

真我からのお告げとか、

人に言語化しないで、

 

それを「芸の肥やし。」として、

 

自分自身の芸術性を発揮して、

世界観やゲーム性の構築に、役立ててもらいたいですね・・・・・・。

 

 

 

その芸術性を見た上で、

 

インスパイアされるものが出てくるだろうし・・・・・・・、

 

その距離感は、

 

自分自身で、答えを導き出す為には、

適した距離感とはなるでしょうから。

 

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

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