ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するために源頼家をはじめ北条家にとって都合の悪い人間を必要以上に悪し様に記している歴史書であるということである。
対象が念仏を唱える僧侶であるという点に目を向けると宗教弾圧ということになるが、弾圧する対象が存在し、実際に弾圧したというのは、悪の権力者を描写するときの実にわかりやすい構図である。現在においても、学生デモや環境保護デモ、あるいは反政府デモがあり、そうしたデモを弾圧する権力者というのはマスメディアにとって絶好の報道対象であり、悪の権力者を打倒せよという世論を喚起しやすい。ただし、そのマスメディアの意見に乗る人だけは。
現在の社会を思い浮かべていただきたい。デモをはじめとする社会運動に対する意見は必ずしも好意的なものばかりではない。デモの振りまく迷惑に翻弄される庶民という姿は世界の至る所で目にできるし、デモに対する反感も珍しくない。そうでなくとも称念の言葉は現在の反政府デモの思想に似たところがあり、時代を嘆くだけ嘆き、時代の権力者を叩くだけ叩いて、自分だけが正義の人として君臨するというのだから、熱心な支持者以外は反感を抱くに十分であろう。
吾妻鏡に従えば、源頼家は称念ら念仏を唱える僧侶を弾圧したことになる。しかしそれは、執政者の判断として間違っているとは言い切れないのだ。現在と同等の言論の自由は藤原道長の時代まで遡らねば存在せず、この時代の言論の自由は現在と比べものにならないほど低い。しかし、現代人が想像するよりは言論の自由があり、この時代の言論の自由の範囲内で僧侶たちは活動していた。ただ、その内容が迷惑極まりなく、活動そのものも迷惑であった。要は現在の選挙カーや街頭演説のようなものだ。源頼家が迷惑を感じている庶民の想いに応えたならば、それはそれで正しい行動である。
ただ、政治家としての力量を考えると、どうしても見劣りしてしまう。単純明快な弾圧であるがために反発も生み出しやすい。源頼朝と同レベルを求めるのは酷であるとは言え、陰謀蠢く京都の朝廷での日々を過ごしている政治家ならば選ばなかった手段であったとも言える。