剣の形代(つるぎのかたしろ) 168/239 | いささめ

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 正治二(一二〇〇)年二月二二日、中原広元と三善康信の両名によって、梶原景時の鎌倉からの逃亡と上洛未遂が後鳥羽上皇のもとに伝わったこと、この知らせを受けた後鳥羽上皇が御所仙洞で五大明王の護摩炊祈祷を始めたこと、梶原景時の息が掛かっている人物と見られていた芝原長保が自分は梶原景時と無関係であると訴えでたことの知らせが源頼家に上げられた。ただし、梶原景時は播磨守護であったため芝原長保とは上下関係にあること、そして、梶原景時の上洛計画を知っていたことから、芝原長保は小山朝政のもとに囚人めしうどとして預けられることが決まった。

 それにしても後鳥羽上皇の行動は不可解である。護摩炊祈祷をなぜ執り行ったのか?

 後鳥羽上皇という人はエキセントリックなところのある人でもあるが、梶原景時の行動に後鳥羽上皇が絡んでいた可能性も否定はできないのだ。

 ここで梶原景時という人物のキャリアを振り返ってみると、鎌倉幕府の御家人たちの中で一人だけ異彩を放っていることがわかる。

 何が異彩か?

 梶原景時の本名が平景時ということか?

 確かに梶原景時は平氏である。だが、姓が平である鎌倉幕府の御家人など数え切れぬほどいる。梶原一族の本拠地は相模国鎌倉郡梶原郷であり、本拠地の名を採用するという、この時代の武士によく見られる苗字である。姓と苗字が同じ意味を持つ現在と違い、この時代は姓と苗字に明確な違いがある。苗字はあくまでもアダ名であり、公式文書では姓が用いられる。北条家が実は平氏であるというのは多くの人の知るところであろうが、梶原家もまた、祖先を辿れば桓武天皇に行き着くという桓武平氏であり、梶原景時の本名も平景時である。ただ、鎌倉幕府の御家人には、源平合戦で源氏についたものの本人は桓武平氏であるという人物はゴロゴロしており、その一覧を苗字ではなく姓を用いて記したならば、鎌倉型の軍勢は源氏の軍勢ではなく源氏と平氏の連合軍であったと断じることができるほどだ。

 話を戻すと、それでは、梶原景時と源氏との関係か?

 梶原景時の先祖を遡ると後三年の役で源義家の郎等として東北で清原氏と争った鎌倉景正に行き着くから、源氏との関係は一〇〇年を数える。もっとも、先祖を辿ると源義家の郎党まで遡ることもできる鎌倉幕府の御家人も、これまた数多くいる。その点でも梶原景時は珍しくない。

 異彩なのは、源平合戦後の行動だ。

 

 

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