剣の形代(つるぎのかたしろ) 166/239 | いささめ

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 梶原景時が討ち取られたが、事件はそれで終わるわけではない。

 正治二(一二〇〇)年一月二四日、鎌倉幕府は安達親長を使者として京都へ派遣した。梶原景時が討ち取られたことを六波羅に伝えることが表向きの目的であるが、もう一つ裏の目的がある。梶原景時が上洛しようとしたということは、京都にも梶原景時の協力者がいた可能性があるのだ。そこで、梶原景時の協力者を見つけ出して捕らえるよう大内惟義と広綱の二名に対し源頼家からの命令が伝えられたのである。なお、吾妻鏡に単に「広綱」とだけ記されている人物は誰なのかは不明。源頼政の末子で建久元(一一九〇)年に逐電した源広綱の可能性もある。

 同日、加藤景廉が梶原景時と親友であったという理由で領地没収となった。

 親友であったというだけで所領没収となったのだから、梶原一族の所領はもっとわかりやすい運命が待っていた。一月二五日、美作国の守護職としての梶原景時とその子の領地が没収された一方、梶原景時討伐に協力した駿河国の武士達に対して鎌倉幕府からの恩賞が与えられた。同日、梶原景時の弟の梶原朝景が北条時政の邸宅に自首し、工藤行光を通して武器を差し出した。一月二六日には糟谷有季が安房高重を捕縛。安房高重は梶原景時の親友であり、梶原景時と行動を途中まで共にしていた後に消息不明となっていたが、消息が判明して糟谷有季の部下たちが捕縛した。

 一月二八日、武田信光が甲斐国から鎌倉に到着。兄の武田有義が梶原景時と共謀して京都に上ろうと行方をくらませたことが報告された。武田信義の四男で武田信義の後継者であった武田有義についての現存する最後の記録であり、その後武田有義がどうなったかはわからない。ただし、甲斐源氏は清和源氏の中でもかなりの有力な氏族であり、武田有義は源頼家に代わって征夷大将軍の地位を狙っていたとも、行方をくらませた後で、京都を経由して九州に赴き、九州で一大武士勢力を結集させて鎌倉幕府に対抗する組織を構築する野望があったともされる。ただし、清和源氏であることが征夷大将軍となる資格と見做されるようになったのはもっと後の時代であり、この時代は、源頼朝とその子孫、より正確に言えば、三種の神器の一つで、壇ノ浦の戦いで海中へと失われた天叢雲剣あまのむらくものつるぎの生きる形代かたしろとして、熱田神宮につながる血筋の人物であることが求められていた時代である。つまり、武田有義には征夷大将軍に就くかどうか以前に、源頼朝の手にした立場を継承する資格が無いのだ。

 

 

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