剣の形代(つるぎのかたしろ) 164/239 | いささめ

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 朝廷で九条家の復権が見えていた頃、鎌倉では梶原景時が話題を独占していた。

 梶原景時とその家族が鎌倉から発って寒川神社に向かったことは鎌倉中に知れ渡っており、梶原景時に対する反発は必然的に鎌倉に滞在し続けた三男の梶原景茂のもとに向かうこととなる。この梶原景茂が、鎌倉で一人、梶原景時擁護の論陣を張ることとなったのだ。

 正治元(一一九九)年一一月一八日に比企能員の屋敷で蹴鞠が開催され、北条時連、比企時員といった面々だけでなく源頼家も蹴鞠に参加していた。もっとも、蹴鞠は名目でしかない。源頼家の手による梶原景茂の尋問である。源頼家は梶原景茂に対し、弾劾の連判状を梶原景時に渡したはずなのに返事がないことを訊ねるも、梶原景茂からは、連判状に記されている御家人達の弓矢を恐れているので返事が来ないという回答が戻るだけであった。

 その後も梶原景時に対する弾劾は特に大きな動きを見せない。少なくとも一二月八日まで梶原景時は鎌倉を離れていることは判明しているが、特に何かの動きがあったわけではない。

 梶原景時弾劾に対するそれらしい動きを見せたのも正治元(一一九九)年一二月九日のことであるが、それは梶原景時が寒川神社から鎌倉に戻ってきたという記録であり、少なくとも吾妻鏡には梶原景時が鎌倉に戻ってきた以上の記録は存在しない。

 梶原景時弾劾に対する源頼家の処罰が下ったのは一二月一八日のこと。源頼家の決断は梶原景時追放である。梶原景時を鎌倉から追放し、梶原景時の邸宅は分解され永福寺に寄附されることとなった。追放された梶原景時は寒川神社に再び戻ったはずである。鎌倉から追放された梶原景時が直接寒川神社に向かったかどうかはわからないが、梶原景時の次の記録が寒川神社にいる梶原景時なのである。

 年が明けた正治二(一二〇〇)年の一月は、源頼朝が亡くなってから初めての正月である。前年までは源頼朝に向けてであった正月の椀飯の儀礼は、今年から源頼家に向けての儀礼に変わった。一日に北条時政、二日に千葉常胤、三日に三浦義澄、四日に中原広元、五日に八田知家、六日に大内惟義、七日に小山朝政、八日に結城朝光が献上している。なお、七日の小山朝政の椀飯の儀礼の後に中原広元が差配した吉書始めの儀と、二名三組計六名が参加しての弓始めの儀が執り行われ、鎌倉幕府は新年モードから通常業務モードに戻っている。八日の結城朝光の椀飯は、通常業務となっても欠かすことはできないということから執り行われたものと考えられる。椀飯の儀礼を行うか否かは源頼家と自身の近さ、さらには鎌倉幕府内部での自らの地位のアピールの機会であり、一月一日に近ければ近いほど自らの高さを周囲にアピールできる、一日から離れても開催したなら面目は保てるというものなのだ。それでも、いつまでも順番待ちをさせ続けるわけにはいかないと考えたのか、一月一三日に亡き源頼朝の一周忌法要を開催し、盛大な法要とする代わりにこれで椀飯の儀礼の終結とさせた。このあたりのドライさは、源頼家の性格なのか、あるいは後ろで差配している中原広元の手によるものなのか、事務的で淡々としていながらも、誰からも非難の声はあがっていない。そういえば、吾妻鏡の正治二(一二〇〇)年の椀飯の儀に、いてもおかしくないはずの比企能員の記録は確認できない。

 通常業務へと移行して数日を経た一月一五日には源頼家が従四位上に昇叙したという連絡も届き、征夷大将軍に必要な位階を獲得したことに成功し、源頼朝が構想した鎌倉幕府の未来が予定通りに進んでいると多くの人が実感できるようにもなっていた。

 

 

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