こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもって権勢を手にしたのに対し、源頼家は父のような戦の勝利者というバックグラウンドを持ち合わせていない。持っているのは源頼朝の正当な後継者であるという一点である。
そのため、亡き父である源頼朝に逆らうことを源頼家はしていない。
その中には、源頼朝が執念ともいうべき形で実現させようとしていた源頼朝の娘の入内がある。
大姫は既にこの世の人ではなくなってしまっているが、源頼朝の娘にはまだ三幡、吾妻鏡の記載では乙姫と記される女性がいたのだ。
その乙姫の体調はお世辞にも芳しいものではなかったこと、彼女の病状を治すことのできる医師を鎌倉まで呼び寄せようとしたことは既に記した通りであるが、源頼家は父の意志を継ぐため、そして、妹の体調を治すために京都から名医として名高い丹波時長を招くことを考え、そして、正治元(一一九九)年五月七日、京都から丹波時長を招き入れることに成功した。砂金二〇両の報酬も魅力的であったが、丹波時長も法外な報酬を吹っ掛けたわけではない。この時代は高級薬として手に入れることが困難であった朱砂丸を持参しており、その朱砂丸の代金が砂金二〇両なのである。丹波時長としてみれば、高価としても有名であった朱砂丸を使わなければならないほどの病状と反応すれば鎌倉幕府も諦めて引き下がるであろうと考えたのかもしれないが、朱砂丸を使えるだけの資金を鎌倉幕府が用意してしまった以上、丹波時長は鎌倉に行かなければならない。
ちなみに、朱砂丸とは硫化第二水銀、すなわち水銀と硫黄の化合物であり、天然に採取することができる物質である。実際にその写真を見ると効果のありそうな服用薬にも見える。ただ、現在はこの物質を容易に取り扱うことができない。有害性物質として取扱注意となっている。
その、現在では有害性物質となっている医薬品を、乙姫は服用した。
貴重で効き目のありそうな服用薬と見られていたこともあり、丹波時長は五月一三日以降、鎌倉幕府の御家人達から連日の饗応を受けることとなった。また、乙姫の体調についても日に日に回復してきていることが周囲からも見てとれ、五月二九日には乙姫がわずかではあるが食事を摂ることができたため、丹波時長の医療技術の素晴らしさを誰もが感嘆することとなった。
このときはまだ希望があった。
だが、六月一二日になると乙姫の容態が急変した。乙姫の目の上の腫れ上がりが酷くなり丹波時長がつきっきりで診ていたが、一四日になって丹波時長は一つの宣告を下すしかなくなった。
もう長くない。