剣の形代(つるぎのかたしろ) 144/239 | いささめ

いささめ

歴史小説&解説マンガ

 建久一〇(一一九九)年二月一四日、源隆保に対する噂が一つの結末を生み出した。この日、後藤基清、中原政経、小野義成の三名の武士が六波羅在中の鎌倉幕府の雑色に捕らえられ院御所に連行されたのである。これにより源隆保が集めた武力が激減したが、それで源隆保の身に降りかかった不幸が終わるわけではない。

 二月一七日、西園寺公経、持明院保家、そして源隆保の三名が出仕停止。さらに源頼朝の帰依を受けていた僧侶の文覚も検非違使に身柄を引き渡された。

 事態が沈静化したのは二月二六日のことである。この日に鎌倉から中原親能が上洛して騒動の処理を展開したことで京都は平静を取り戻すこととなった。

 この一連の出来事のことを、逮捕された後藤基清、中原政経、小野義成の三名とも左衛門尉であったことから、三左衛門事件という。しかし、ここで人生を破壊されたのは三人の左衛門尉だけではない。三名の貴族と一名の僧侶、つまり、合計七名もの人生が破壊されたことになる。なぜ彼らの人生も破壊されなければならなかったのか?

 三名の貴族について慈円は愚管抄で一つの説を述べている。

 西園寺公経こと藤原公経は一条能保の娘である一条全子を妻としていることから一条能保の娘婿である。

 持明院保家こと持明院保家は一条能保と従兄弟同士の関係にあたり、また、一条能保は持明院保家を猶子としていた。

 そして源隆保は源頼朝の従兄弟であるが、中央政界で地位を築くようになっていったのは一条能保が源隆保を抜擢したことに始まる。

 一条能保は源頼朝との近さを京都における自身の権勢の基盤としており、三名とも一条能保が存在していることで中央政界に取り立てられるようになっていた人物である。

 ここまで一条能保が絡んでくると、今は亡き一条能保に絡んでいることが想定できる。その上で慈円は、一条能保とその息子の一条高能が亡くなったことで一条家の権勢が喪失し、一条家の家人が形勢を挽回するために土御門通親を襲撃することを企てたとするのが慈円の主張する説だ。

 裏にどのようなものがあったかはわからないが、表立った処罰は一部であるが判明している。

 まず、三左衛門の語源となった後藤基清、中原政経、小野義成の三名についてであるが、彼らは鎌倉幕府の御家人でもあるため鎌倉に護送されたのち、鎌倉幕府が身柄を受け取らなかったために京都へと戻された。なお、後藤基清はそれまで讃岐守護であったがこのタイミングでその職を解任されたことは判明しているものの、その他の処罰は無し。残る二名については処罰があったのかどうかの記録も残っていない。そもそも処罰が無かったのかもしれない。

 出仕停止となった三名の貴族については処罰が判明している。西園寺公経と持明院保家の両名は蟄居、源隆保については土佐国への配流が決まった。また、僧侶の文覚は佐渡国への配流となった。

 

 

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村