剣の形代(つるぎのかたしろ) 130/239 | いささめ

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歴史小説&解説マンガ

 それにしてもなぜ鳥羽か?

 過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。

 なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもとを訪れることは許されないのだ。そのため、内裏に睨みの利かせることのできる土地に根拠地を構えることは院政を展開するにあたって重要なポイントだったのである。特に白河法皇が鴨川の東の白河の地に自らの根拠地を置いたのは画期的だった。平安京遷都前、いや、その前の平城京の時代から続いていた、北を上、南を下とし、北を仰ぎ見る方角とする概念を壊し、九重塔という圧倒的存在感を見せつけるランドマークとともに鴨川の東の白河の地こそ仰ぎ見る方角であるという意識付けに成功したのである。現在の京都は高い建物の建設が許されない都市であるが、当時の京都は現在よりももっと建物が低い。二階建ての建物すらほとんど見られない。そんな京都の人にとって九重塔は否応なく日常生活の中で意識せざるを得ないランドマークとなり、そのランドマークの持ち主である白河法皇のことも意識せざるを得なくなる。

 これに対し後鳥羽上皇は平安京から少し距離のある鳥羽の地に自らの根拠地を定めた。鳥羽離宮は確かに壮麗な建物であり、鳥羽の地も平安京から少し離れているもののこの時代の京都の一部を為す重要な土地である。しかし、そこには白河法皇が築くことに成功した圧倒的存在感を有するランドマークなど存在せず、平安京に住む人の日々に意識に鳥羽の地のことが意識づけられることもない。

 しかし、時代の変遷を考えると鳥羽の地が重要な意味を持つ。

 

 

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