剣の形代(つるぎのかたしろ) 114/239 | いささめ

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 大姫は治承二(一一七八)年に源頼朝の娘として生まれ、六歳のときに木曾義仲の後継者であるはずの源義高と婚約しており、このまま年月を重ねれば源義高との結婚生活が待っているはずであった。

 しかし、木曾義仲が討ち取られた後に源義高も誅殺されると、その瞬間に大姫の人生は終わってしまった。無理もない。現在の学齢でいくと小学二年生から三年生だ。その年齢の少女が、将来の結婚相手と考えていた源義高の死を知った、それも、他ならぬ父の命令で殺害されたのである。源義高の死を知った瞬間から大姫は病床に伏すようになり、その後も体調はまともに回復することは無かった。

 それでも病床で横になったままというわけではなく、起き上がって日常生活を過ごすぐらいはできるようになっていた。ただし、そこにいるのは源義高と一緒に暮らしていた頃の明るい少女ではなく、人生に絶望した少女だった。

 その後、源頼朝は摂政近衛基通に大姫を嫁がせることを考えたが、藤氏長者に九条兼実を推して九条兼実による摂関政治を考えるようになったことで近衛基通の元へ嫁がせる話は頓挫した。その後、源頼朝は一条高能のもとに嫁がせることも考慮するようになったが、これは大姫自身の猛反発で白紙に戻った。

 大姫を含む鎌倉幕府にかかわる全ての人が反対しなかった大姫の嫁ぎ先、それは後鳥羽天皇であった。ただし、大姫が反対の意思を示さなかったというだけで、積極的に大姫が賛成したという記録はどこにもない。また、大姫の入内を求めているのは源頼朝と鎌倉幕府の面々だけで、源頼朝と協力関係にある時期の長かった九条兼実ですら大姫の入内については同意していなかったし、九条兼実への反発のために源頼朝と接近することを選んだ土御門通親も大姫の入内については快く思っていなかった。

 建久六(一一九五)年に大姫が上洛したことは記録に残っている。いかに源頼朝が東海道を整備して京都と鎌倉との陸路の時間を半分に短縮させたといっても、それでも最短で七日を要しており、現在のように新幹線で移動できるような時代ではない。建久六(一一九五)年の上洛はスピードを重視した上洛行ではなかったとは言え、また、大姫自身が歩いたわけではなくその多くは輿に担がれての移動であったとは言え、大姫は家族とともに鎌倉から京都まで向かい、そして無事に鎌倉に戻ってきたのであるから、大姫は源義高の死をきっかけとして体調を悪化させたと言っても鎌倉と京都を往復できるだけの体力をつけるまでは回復していたこととなる。

 吾妻鏡が欠落していることもあり、京都から鎌倉に戻ってきてからの大姫の動静はそのほとんどが不明である。鎌倉と京都との間を往復できる体力までは取り戻したものの、心因性からと思われる不健康は大姫の身体をむしばみ、建久八(一一九七)年七月一四日、大姫は死を迎えてしまった。享年二〇。

 

 

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