剣の形代(つるぎのかたしろ) 113/239 | いささめ

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 後鳥羽天皇のもとには人生一発逆転を狙う者が集まり、後鳥羽天皇は周囲に集う野心家達を自分の手駒として利用するようになっていた。

 後鳥羽天皇は自らの周囲に野心家を集めたが、野心があるだけでは後鳥羽天皇の側に身を寄せることはできない。それが趣味の世界であろうと、あるいは実務の世界であろうと、後鳥羽天皇の求める資質を持った人物でなければ後鳥羽天皇の周囲に身を寄せることは許されなかった。彼らの野心は彼らの全員が後鳥羽天皇の求めに応えていたならば歴史は大きく変わっていただろう。

 しかし、歴史はそれを許さなかった。

 後鳥羽天皇の対宗教対策の根幹である天台座主承仁が体調不良を訴えるようになり、無理して出仕するようになったのである。誰の目にも無茶な行動であったが、承仁の使命感の高さからか、それとも後鳥羽天皇が無茶をさせたのか、病人が無理して出仕していることを隠すことはできず、建久八(一一九七)年四月になると白河の房に籠もるようになり、四月一〇日に天台座主から降りざるを得なくなっていた。

 その後も承仁の体調は戻ることなく、建久八(一一九七)年四月二七日、前天台座主承仁、入滅。承仁は三〇歳を迎える前に死を迎えた。

 承仁を失った後鳥羽天皇は、承仁の弟子である承円に門跡の相承を認める宣言をすぐに下している。しかし、天台座主にただちに任命することはできなかった。承円は治承四(一一八〇)年生まれの一〇代の若者であり、また、松殿基房の息子でもあるため、本人の僧侶としての資質以前に権力関係の問題からこの時点で天台座主に就くことは不可能であった。天台座主の地位が突然空席になったために、天台座主の座を巡る争いが始まり、実に一年近くに亘って天台座主が空席であり続ける時代を迎えることとなる。

 流人時代から京都の情報を定期的に収集していた源頼朝のことである。源頼朝がこの情報を掴んでいないわけがない。

 これは推測の域を出ないが、源頼朝は九条兼実の実弟である慈円を天台座主に復帰させることで、九条兼実の、さらには九条家の再興を図り、その延長で源頼朝の娘である大姫を後鳥羽天皇の元へ入内させることを計画していたようなのだ。

 断言できないというのは、建久八(一一九七)年の九条兼実の日記が四月二日を最後に欠落しているからである。また、建久八(一一九七)年の日記そのものも、一月一日から四月二日まで毎日続いているわけでなく、ほとんどの日が欠落しているのである。そして、欠落していない部分を追いかけると、源頼朝と九条兼実との間の書状のやりとりの記録が残っているのである。九条兼実を通じて宗教界に影響を与える人物を天台座主に据えるとすれば、その答えは慈円しかいない。

 ただし、源頼朝が娘を入内させることを前提としたやりとりは七月で終わりを迎えたはずである。

 建久八(一一九七)年七月一四日に大姫が亡くなったのだ。

 

 

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