剣の形代(つるぎのかたしろ) 88/239 | いささめ

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 鎌倉幕府の面々が去り、京都は平穏を取り戻していた。

 本来ならばその平穏の様子を当時の記録から推し量りたいところであるが、非常に残念なことに、九条兼実の日記は建久六(一一九五)年五月から八月の記事が現存していない。ゆえに他の史料からこの頃の京都の様子を推し量るしかない。

 ただし、九条兼実という権力の中枢中の中枢にいる人物の残した記録ではないため、この頃の九条兼実の様子について、本人の心情を把握することなしに客観的に知ることができるというメリットもある。

 さて、建久六(一一九五)年五月から八月という期間の九条兼実の日記が残っていないことであるが、まさにこのタイミングこそが九条兼実の人生を左右する出来事の起こったタイミングである。すなわち、建久六(一一九五)年八月三日に、九条兼実の娘である中宮任子が後鳥羽天皇の子を出産したのだ。このときの九条兼実の様子は、まさに現存していないために九条兼実の日記から知ることはできない。

 代わりに、そのときの九条兼実の様子として現存している記録として、九条兼実の家司であった三条長兼の日記がある。

 三条長兼によると、男児誕生のお告げもあったし、男児誕生の夢も見たし、男児を無事に出産するよう祈りも捧げていたし修法も繰り返していたということで、もうすぐ自分の娘が後鳥羽天皇の男児を産む、そして、自分が次期天皇の祖父になることを確信していたという。

 ところが、中宮任子が産んだのは女児であった。

 三条長兼の日記によると、九条兼実は女児出産ということでこれ以上なく落胆したとある。

 欠落している九条兼実の日記が復活するのが九月一一日のことである。この日の記事として九条兼実は「皇女降誕、頗る御本意にあらざるか」と、自分の感情ではなく後鳥羽天皇の心情を代弁するという体裁で一ヶ月前の女児生誕を書いている。

 なお、愚管抄には、前例のない規模の祈祷を繰り返したのに生まれたのは皇女であったために九条兼実がかなり落胆した様子が記されている。

 当事者の記録がないにしても吾妻鏡の記事ならばあるのではないかと考える人もいるかも知れないが、その期待はするだけ無駄である。京都の情報を常に手に入れることを考え、京都から鎌倉まで片道七日、往復半月の情報通信網を築いた源頼朝のことであるから、八月三日の中宮任子の出産については遅くとも八月中旬には知っていたはずである。しかし、吾妻鏡の建久六(一一九五)年八月から九月の記事を見ても、京都での中宮任子の出産の様子を書き記した記事もなければ、その知らせを知った源頼朝がどのような感情を抱いたかという記事もない。後に鎌倉新仏教のトップバッター務めることとなる法然を九条兼実が招いて中宮任子の出産に立ち会わせて受戒を行わせたという記録はあるが、その記録は吾妻鏡によるものではない。

 吾妻鏡にあるのは、京都から鎌倉に戻ってきた源頼朝が、そして鎌倉幕府の面々がどのように過ごしていたかという記事であり、そこにあるのは統治者としての源頼朝、権力としての鎌倉幕府、そして、親族を亡くして喪に服している北条一族といった情景である。吾妻鏡の記録を追いかけると、京都からの情報は届くし、それに対して源頼朝が何かしらのアクションを起こすのは今まで通り変わらずにいることも見えてくる。

 例えば八月六日の記事として、丹波国志楽庄と伊祢保について、荘園領主から地頭の振る舞いが横暴にすぎるという連絡を受けたため、まずは地頭の持つ荘園からの年貢徴収権を停止し、最終的には地頭を交代するよう中原親能に命じたことがある。丹波国は現在の京都府の一部であり、この時代の考えでいくと京都のある山城国の北にある令制国である。つまり、京都からの情報連絡網は健在であったことがわかる。

 

 

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