剣の形代(つるぎのかたしろ) 82/239 | いささめ

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 娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したことで、あとは娘である大姫を入内させるのみとなった、はずであった。

 ところがここで九条兼実に大きなプラスが働いていることが判明した。後鳥羽天皇の中宮である九条任子の懐妊が判明したのである。

 九条任子こと藤原任子は九条兼実の娘であり、文治六(一一九〇)年に後鳥羽天皇の元に入内している。同年四月には中宮に立后しており、ここまでの流れは藤原摂関家に生まれた女性としてごく普通の人生である。入内したのも現在の満年齢で言うと一七歳であるが、それから五年を経ている。二二歳ともなれば妊娠しても出産してもおかしくない年齢だ。後鳥羽天皇は満年齢で言うと一五歳であるが、このぐらいの年齢で子をもうけることは、この時代としては普通である。

 こうなると、いかに大姫を入内させることに成功したとしても、入内の後で男児を出産したとしても、中宮が男児を先に産んだとあっては大姫の地位が急上昇することなどあり得ない話になる。後鳥羽天皇の男児として重宝されることはあるだろうが、大姫が中宮任子から中宮位を奪うことも、乗り越えて皇后位に就くことも考えられないし、大姫が産んだ男児が皇位を継承する可能性も下がるから源頼朝が天皇の祖父となる可能性も減る。

 ただし、希望はある。

 中宮任子の産んだ子が女児であることだ。

 そうすれば男児出産を巡るレースは振り出しに戻る。いや、妊娠と出産の期間が加わっているだけ中宮任子は妊娠するタイミングが遅くなることとなる。

 源頼朝はどうにかして娘を後鳥羽天皇の元に入内させようと、建久六(一一九五)年五月になると、源頼朝らしからぬ慌てぶりを見せるようになる。頻繁に宮中に顔を出し、後鳥羽天皇への拝謁にも成功し、丹後局への接近を強めていった。さらに、後に源頼家と呼ばれることとなる若君も帯同させることで、名目上は自分の後継者のアピール、主目的は後鳥羽天皇と義兄弟になる予定の男児の紹介をしている。

 なお、この男児が元服を迎え源頼家と名乗るようになったのはこの頃であったとする説もあるがはっきりとは言えない。後述するように吾妻鏡は一部が失われているため、源頼家の元服の記録は現存していない。公卿補任を読む限りでは少なくとも建久八(一一九七)年の年末には源頼家と名乗るようになっていたことが確実視されることから、源頼家と名乗るようになったのは建久六(一一九五)年から建久八(一一九七)年の間のどこかであると推測される。

 

 

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