覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 141/272 | いささめ

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 藤原秀衡が公的に認めているわけではないが、奥州藤原氏の根拠地である平泉に源義経がいるらしいことは確実である。

 ならば平泉まで誰かを派遣して源義経を連れ戻せば済むだろうと考えるのは浅慮に過ぎる。この時の源義経の行動は、現在でいう政治亡命なのだ。

 国交の存在しない国に逃れたわけでも、ましてや交戦国に向けて亡命したのではない人物に対する扱いは難しい。身柄を引き渡すよう要請しようと断られたらどうにもならない一方で、強引に身柄を引き渡すよう実力行使に訴え出ようものなら関係は悪化し最悪の場合は戦争に至ってしまう。このときの鎌倉と平泉との関係で考えると、源義経を強引に連れ戻すには、スパイを送り込むか、あるいは軍勢を送り込むかという話になる。こうなると前者は関係悪化、後者に至っては全面戦争となる。この時代最大の軍事力を持つ源頼朝と言えど、奥州藤原氏と全面対決となっては無傷では済まない。

 それに、平泉のもたらす富がある。文治三(一一八七)年時点の産業生産性で、東北は関東を圧倒していた。コメをはじめとする食糧生産だけでなく、武具にしても、軍馬にしても、関東の武士達の生活は東北での生産が供給されることが前提となっていた。いや、東北からの供給を前提としていたのは関東だけではなく日本全体がそうであった。京都でも、コメをはじめとする生活必需品は東北がなくてもどうにかやっていけるが、そうではない日用品となると見渡すところに平泉からもたらされた物品があり、奥州藤原氏が北海道や樺太、日本海対岸の金帝国との交易で手にした物品があり、そして何より、この時代の主要な通貨の一つでもある砂金がある。平泉と全面対決となったなら、こうした物品が日常生活から完全に消えるのだ。

 先に平泉の立場に立って源義経を鎌倉に引き渡すわけにはいかない事情を記したが、鎌倉の立場に立ってもやはり、源義経を強引に鎌倉へと連行する、あるいは、平泉の地で亡きものとさせるわけにはいかない事情があったのである。源頼朝も、平泉との経済的な関係は現在と変わらぬまま、源義経についてだけは妥協を許さないという交渉を続けるしかなかったのである。

 そのあたりの交渉の一例が文治三(一一八七)年三月八日のこととして吾妻鏡に記載されている。この日、興福寺の周防得業である聖弘に対する尋問が始まったのである。興福寺で源義経を匿っていたとして聖弘が鎌倉に呼び出されたのは文治二(一一八六)年二月一八日であるから、鎌倉と奈良との移動時間を考えても聖弘は一年近く鎌倉に滞在していたこととなる。なお、鎌倉では小山朝光のもとに預けられていたという。

 一年に亘って鎌倉に滞在し続けてきたのは、聖弘が源義経を匿っていたことを隠しもせず、悪びれもせずにいたからである。異なる政治信条の人間を連れてきて一年に亘って身柄を拘束しておきながら、聖弘にしてみれば一年に亘って拉致監禁も同然の中で周囲が全て源義経を敵とする風潮のある中で生活していながら、聖弘は自らの意見を変えることなく源義経を擁護し続けていたのである。この環境で洗脳されなかったのであるから聖弘の意思はそれほどに強固なものであったのか、それとも洗脳工作自体が稚拙であったか。

 ただし、洗脳工作に失敗して聖弘が源義経を支援する姿勢を崩さないでいることと、今後も聖弘が源義経を支援できることとは同じことを意味するわけではない。このあたりのことを源頼朝が理解していないわけはない。

 

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