覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 131/272 | いささめ

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 年が明けた文治三(一一八七)年一月、未だ源義経の消息は把握できずにいる。しかし、源義経の逃げ道は、一つ、また一つと封鎖されていた。源義経を捉えよとの院宣が発令され、各国では源義経を捜索する動きが活発となっていた。

 源義経の道を塞いだのは、令制国や各地の武士等だけではない。宗教界でもまた源義経の逃げ道を塞いでいた。

 その中の一つが伊勢神宮である。

 源義経は伊勢神宮に奉幣したが、源頼朝もまた伊勢神宮に奉幣した。それも、源義経の叛逆が無事に沈静化するように願ってのことである。伊勢神宮の立場に立つと源義経と源頼朝とで真逆の奉幣ということになったが、源頼朝はこのときの奉幣で、馬八頭、金二〇両、太刀二腰を奉納している。全てを合計して現在の貨幣価値に直すと一億円は超える金額だ。おまけに、伊勢神宮の主要な所領の一つである相模国の大庭御厨は鎌倉のすぐ近くである。これでは、いかに権利を返上したといっても、ついこの間まで全ての荘園および公領に対する人員派遣と年貢徴収の権利を持っていた人物が、鎌倉のすぐ近くにある大庭御厨を人質に取っているようなものだ。国家反逆者となって逃亡中の身となっている人物と、今や日本中の誰もが無視できぬ存在となっている人物と、伊勢神宮はどちらを選ぶのか。その答えは一つである。

 さらに源頼朝は、源義経だけでなく、鎌倉方に逆らう存在の行動名目を封鎖していった。具体的には平家の落人が担ぎ出すことのできる人物を減らしていった。もっとも、殺害したのではない。大原に隠遁した建礼門院平徳子に、摂津国にある真井と島屋の二カ所の荘園を寄進したのである。この二カ所ともかつて平宗盛が所有していた荘園であったのを平家没官領として鎌倉方が支配するようになっていたのを、あくまでも名目は一人の僧侶に寄進するとして、実質的には平家の生き残りのうちもっとも担ぎやすそうな人物の生活の資とすることを目的として、建礼門院の所有とさせたのである。

 建礼門院が大原の地で、安徳帝の母とは思えぬ質素な暮らしをしていたと平家物語は記している。平家物語の記載が史実であるかどうかは断言できないが、少なくともかつてのような栄華に満ちた暮らしでなかったことは間違いない。建礼門院本人が受け入れたとしても、かつての平家の栄光を知る者、特に平家の落人となってしまい、機会があればリーダーを担ぎ上げて源氏に対抗すべく挙兵することを狙っている者にとって、建礼門院の生活の質の低下は絶好の口実である。個人の貧困に対する反発ならば私怨でも、安徳帝の生母の貧困となればそれは十分に政治的問題であり、安徳帝の生母に貧困を強いる鎌倉方を政治的に攻撃する絶好の口実となる。

 源頼朝がここで二カ所の荘園を建礼門院に寄進したことは、建礼門院自身の感情はともかく、政治的には大きな意味のあることであった。執政者としての源頼朝を批判する口実を一つ摘み取ることに成功したのであるから。

 もっとも、このように源義経の逃げ道を塞ぎ、平家の落人が担ぎ出すことのできる存在を塞いだことが、源義経や平家の落人が、源頼朝に、そして鎌倉方に完全屈服するようになったことを意味するわけではない。反発の余地が無くなれば無くなるほど、反発は地下へと潜っていく。

 その例が源義経であり、また、現在でも続く平家の落人伝説である。この時代としてはかなり大規模な操作網を敷いているのに、平家の落人が逃れた集落は存在し続け、源義経は未だに消息がつかめずにいる。それがこの時代の限界であると言えばそれまでであるが。

 

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