覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 126/272 | いささめ

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 政治家としての源頼朝は、有能ではあっても冷酷である。そして、支持率となると、特に農村部で高いものがあったとするしかない。源義経を捕縛しようとしているために都市部では源頼朝に対する不平不満もあったが、農村部ではそのような感情は生じなかったと言える。

 その年の収穫がどれぐらいになるかを予測するのは旧暦八月頃である。鎌倉時代の耕作として二毛作や二期作が広まったことを歴史の授業で習った人は多いであろうが、この頃はまだ二毛作も二期作も一般化していない。文治二(一一八六)年八月の記録を調べると、収穫が好調になると見込まれることの記録が出てくるのだが、それは二期作でも二毛作でもない。

 源平合戦で夥しい血が流れ、平家が壇ノ浦に沈んだのはあまりにも大きすぎる犠牲だ。しかし、その犠牲を生み出した結果であっても平和を取り戻したというのは、収穫において、いや、全ての産業においてプラスに働く。戦争と平和とを正義という観点や崇高な理念という観点から捉えるのではなく、純然たる経済の視点から捉えると、平和の方が儲かるという結論に至る。何が儲かるといって、戦争をしないことほど儲かるものはない。騒動はあっても大きな合戦はなく、田畑が戦場になることも、耕作者が戦場に連れていかれることも、略奪の被害に遭うことも無くなるだけで豊かな暮らしが取り戻せる。農村部で源義経に対する同情の感情を抱く者は少ない。農村部における源義経は産業の破壊者であり、その源義経を捕縛しようとしている源頼朝は悪に対する正義の存在にすらなる。前年の守護地頭の設置権、すなわち土地に人員を配置し年貢を取り立てる権利が源頼朝に与えられたことで税負担が増えることとなったことは納得し難いが、平和を取り戻したことで収穫が増えることを考えるならば、源頼朝以前の方がマシだという感情は生じない。

 文治二(一一八六)年八月は日本全体が平和を満喫できた時期であったと言える。

 しかし、九月に入ると風雲急を告げるようになる。

 源義経をめぐって鎌倉と興福寺との対立が顕在化するようになったのだ。それこそ、大和国が戦場になりかねないほどの対立だった。

 静御前とその母の磯禅師の両名が鎌倉を発って京都へと向かった四日後の文治二(一一八六)年九月二〇日、京都に隠れ住んでいた源義経の郎党の堀景光が、鎌倉方の御家人である糖屋有季に捕縛されたのだ。これだけならば源義経の家臣の一人が捕らえられただけの話であるが、堀景光の供述から、源義経が奈良の興福寺に潜んでいたこと、そして、堀景光が京都にいたのは源義経の使いとして藤原範季と連絡を取るためであったことが発覚したのである。

 藤原範季は藤原を姓としているが藤原北家の人間ではなく藤原南家の生まれであり、官界に身を投じたのも家柄ではなく文章得業生として大学寮で学問を修めた結果である。官界に身を投じてからは出世を重ねて貴族入りし、各地の国司を勤め上げつつ、平家とのコネクションも築いて平清盛の姪である平教子を妻として迎え入れていた。

 ここまでであれば平家とつながりのあるものの、平家都落ちに帯同することなく京都に残った数多くの貴族のうちの一人ということになっていたが、三つの点でこの人と源義経とが連絡を取り合っていたことは大スキャンダルとなる話になったのだ。

 まず、藤原範季は摂政九条兼実の有力な家司である。藤原摂関家の分裂に際し鎌倉方を選ぶことで近衛家との対立を打ち出した九条家が、よりによって鎌倉方の捜索している源義経とつながりを持つ者を家司としていたのである。

 二番目に、藤原範季はかつて鎮守府将軍として陸奥国に下向した経験があり、その際に奥州藤原氏とのコネクションを築くことに成功している。

 三番目、そして一番大きな問題点、それは、平治の乱の後で源範頼を引き取って養育していたことである。源範頼にとっては第二の父とも言える人物であったのだ。

 源義経が九条兼実と奥州藤原氏と源範頼との間につながりのある人物と連絡をとりつつ、奈良の興福寺に潜んでいる。これを全て、鎌倉方に悟られることなく続けていたのであるから、これをスキャンダルと呼ばずに何と呼べば良いのか。しかも、秘匿のターゲットとなっているのが、情報の重要性を熟知し、誰よりも情報系統の確立に専念してきた源頼朝だというのだから、二重の意味で驚愕である。

 鎌倉方は、京都に派遣されていた比企朝宗を先頭に軍勢を奈良へと差し向けると同時に、堀景光の供述で明らかとなった源義経の家臣の潜伏先の捜索に入った。

 翌文治二(一一八六)年九月二一日、源義経の家臣の一人である佐藤忠信が、潜伏先である中御門東洞院で自害。吾妻鏡によると、かつての恋人で今では人妻となっている女性に手紙を送ったことから潜伏先が見つかり、襲撃を受けた末に多勢に無勢であることを悟って自ら死を選んだという。

 同日、比企朝宗の率いる軍勢が、興福寺の聖弘の房に入り源義経を突き出すように求めるも、既に源義経は東へと逃亡したため興福寺にはいないことが判明。源義経を匿っていた興福寺の聖弘は捕縛されたが、鎌倉方のこの処置に対して興福寺の関係者は激怒し、一触即発の事態へと発展した。

 

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