覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 124/272 | いささめ

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 自分の名が改名させられたことを同時点で知らなかったと推測される源義経であるが、自分に関係する悲劇についてもやはり同時点では知らなかった可能性が高い。

 その悲劇とは、静御前の産んだ子である。

 源頼朝は、静御前の産んだ子が女の子であれば乳児を静御前に託して何もせずに京都に帰すとしていたが、産んだ子が男児であった場合は由比ヶ浜に埋めるとしていた。捨て子となるのではない。埋めて殺すのだ。

 そして、静御前の産んだ子は、男児であった。

 殺害が決定してしまったのだ。

 反乱の芽を摘み取るという措置であるというのは、同意はできないが理解はできる。平治の乱の直後、生まれて間もない牛若、後の源義経を生かしておいたことが、周り回って平家滅亡へとつながってしまったことを知らない者などいない。その理屈を適用すれば生まれて間もない男児を殺害するのも理解はできる。しかし、いくら理解ができるといっても、源頼朝のこの決定はあまりにも残酷にすぎる。実際、北条政子は夫のこの指令に猛反発している。

 通常であれば、いかに源頼朝の指令であろうと北条政子の反発があるなら和らぐところである。だが、このときばかりは違った。源頼朝は妻が何と言おうと静御前の産んだ子を殺害するように命令した。

 文治二(一一八六)年閏七月二九日、源頼朝の命令を受けた安達清経は、静御前のもとから生まれたばかりの男児を引き剥がそうとし、源頼朝を恐れた静御前の母の磯禅師も静御前から男児を引き剥がすのに加勢したために静御前は我が子を抱きしめ続けることができなくなり、生まれたばかりの男児は見殺しにされるために誘拐されることとなってしまった。

 吾妻鏡が記しているのはここまでである。この後で男児がどうなったのかを記す直接的な記録はない。そして、吾妻鏡以外の史料のどこを探しても、静御前のことも、静御前の産んだ男児のことも記されていない。つまり、この悲劇が本当のことでない可能性もある。

 とは言え、このときの源頼朝を、いや、それよりも前からの源頼朝の性格や行動を考えると、吾妻鏡に記したような悲劇は、本当に静御前の子に対して下された処分であったかどうかはともかく、鎌倉方の敵とされた人物に、そしてその関係者に下された処分として通常の光景であったろうとするしかない。源義経の子であったとされるために悲劇性は高くなるが、源義経の子でなくとも同じような悲劇に見舞われた人、そして、その悲劇に耐えなければならなかった人は鎌倉では珍しくなかったとするしかないのだ。

 そう言えば、「平家の公達」という言葉は人口に膾炙されていても、源氏にそのような言葉は見当たらない。源氏に貴族が少なかったのではなく、源氏の血を引く者の絶対数が少ないのだ。仮に静御前の子を生かしていたなら、そして、その他の源氏の血を引く者を生かしていたならば、後の承久の乱に至る一連の混乱は生じなかったであろうと推測できるのだ。歴史を語るにおいて厳禁とされるIFの話ではあるが。

 

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