覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 121/272 | いささめ

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 源義経を捜索するためとして各地に守護と地頭を設置する権利を得たと吾妻鏡が記しているのは文治元(一一八五)年一一月二八日のことである。それでいて、源義経の捜索は上手くいっていないどころか捜索に手間取ってしまっている。

 このときの鎌倉方の獲得したのは各地への人員配置の権利と年貢徴収の権利であるが、源義経捜索のためとして与えられたはずの権利を得ながら活用しきれていないことは源頼朝の立場を悪くするものがあった。

 その第一歩として、文治二(一一八六)年六月一七日に越前国主徳大寺実定から北条時政に対する行動停止要請があった。厳密に言うと、北条時政が越前国に派遣していた代官が国務の妨げとなっているとして越前国の政務に対する介入を拒否したのである。徳大寺実定は越前国主であるが、同時に内大臣でもある。越前国司ではなく越前国主と書いたのも、内大臣である徳大寺実定が越前国を知行国としているからである。従二位源頼朝の義父であるということ以外に権威を持たない北条時政は無論、源頼朝ですら太刀打ちできない貴族としての権威を持つ人物の介入があった以上、この介入は受け入れるしかない。

 一度でも介入を受け入れると、次から次へと介入を受け入れなければならなくなる宿命を持つ。特に、貴族としての地位を基盤として鎌倉の地で権力を築いている源頼朝であるため、同じく貴族としての地位を前面に掲げると源頼朝とて受け入れなければならなくなる。しかも源頼朝は院政からの決別を貴族達に訴えているため、必然的に院政の前の時代である藤原摂関政治への回帰を目指すこととなる。つまり、藤原摂関政治の枠内で行動する限りでは源頼朝が一人の貴族でしかなくなるというアピールをしなければならない。

 その動きのピーク、あるいは藤原摂関政治の復権をイメージづける宣言は七月七日に下された。六月一七日は越後国だけであったが、七月七日は全国が対象である。鎌倉方が人員を配備し年貢を徴収する権利を有するのは、かつて平家の土地であった場所、ならびに源義経や平家の落人などの国家反逆者が潜んでいる場所に限るとし、その他の土地に関する人員配備の権利と年貢徴収の権利を源頼朝の側から返上したのである。その多くは藤原摂関家の土地であることから、これにより藤原摂関家は治承三年の政変以降に失っていた所領の多くを荘園として取り戻すこととなり、資産を取り戻すこととなったのである。なお、後白河院については所領を取り戻すことができずにいる。後白河院の所領を遡ると治承三年の政変の原因となった平家の所領や藤原摂関家の所領であり、平家の所領については引き続いて鎌倉に人員配備と年貢徴収の権利が存在し、藤原摂関家の所領については九条兼実をはじめとする藤原摂関家のもとに戻されている。

 ただし、藤原摂関家の側としても一時的な権利と資産の回復となったものの、切実な問題があった。そもそも藤原摂関政治のピーク時のように藤原摂関家でどうにかできる武士などいなくなっていたのだ。当然だ。そうした武士達をまとめ上げて作り上げた勢力が鎌倉であり、そのトップが源頼朝なのである。武士が藤原摂関家をはじめとする有力貴族からかつてのように所領を守るよう依頼されたとしても、今やもう藤原道長の頃のように貴族の言葉一つで武士が喜んで動くような時代ではない。武士に荘園を守ってもらうためには、源頼朝に頼むしかないのだ。

 名目は源頼朝のもとから各地の荘園や公領に人員を配備する権利も年貢を徴収する権利も失われた、いや、源頼朝のほうから返上したことで藤原摂関政治の土台となる貴族の荘園と資産が復活した。しかし、その荘園を守り資産を取り戻すために必要な武力を源頼朝に頼んで派遣してもらわなければならない、つまり、今まで通りのままとなったのである。越前国で徳大寺実定が北条時政の送り込んだ代官を黙らせることに成功したのは極めて限られた例外とするしかないのだ。

 

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