覇者の啓蟄~鎌倉幕府草創前夜~ 1/272 | いささめ

いささめ

歴史小説&解説マンガ

 かつては鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に就任した建久三(一一九二)年とするのが一般的であった。征夷大将軍就任年から「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と鎌倉幕府の成立年を覚えてきた人も多いであろう。一方、近年の教科書だと、源頼朝が後白河法皇に全国に守護と地頭を置くことを承認させた文治元(一一八五)年が鎌倉幕府成立の年となっていることも多く、その延長で「イイハコ作ろう鎌倉幕府」という覚え方が広まった。さらに最近の教科書となると、そもそも鎌倉幕府が誕生したのが何年なのかを明記しない教科書も珍しくなくなっている。

 いったい歴史教育に何が起きているのか。

 結論から記すと、誰一人として鎌倉幕府の成立年を明言できないという現実に、教科書が、そして歴史教育が従ったまでのことである。

 どういうことか?

 明確に鎌倉幕府の誕生年を特定できないのは、そもそも当時の人たちに鎌倉幕府という用語が、いや、武家政権の呼称としての幕府という用語そのものが存在しなかったからである。そもそも、武家政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代に入ってからであり、鎌倉幕府という用語に至っては明治時代に作られた歴史用語である。ゆえに、鎌倉時代に鎌倉幕府という語は当然ながら存在しない。

 ただし、用語は無くとも概念ならばある。源頼朝ら鎌倉方の武士達が、一つ、また一つと新たな権利を手にしていった結果、相模国鎌倉の地に朝廷ですら無視できぬ巨大な政治勢力が生まれていたというのが当時の人たちの認識だ。当時の人達は、相模国鎌倉に誕生した巨大政治勢力のことを、現在の我々が考えるような鎌倉幕府という明瞭な政治権力としてではないものの、鎌倉に存在している源頼朝を中心とした集団勢力としてはさすがに認識していた。独自の権力組織ではなく、この国の統治システムの一部を構成し、かつ、朝廷権力とは一歩下がった場所にある、すなわち、鎌倉において朝廷の支配下に新たに構築されつつある権力構造であるとは見なしていたのである。六波羅や摂津国福原に拠点を構えて勢力を築き上げた平家と同様に、相模国鎌倉を拠点として権力を興隆させてきたのが源氏であるというのがこの時代の人達の認識であり、京都からの距離という大きな差異はあるものの、その構造自体は平家政権と類似していると考えていたのだ。

 前述の通り、この時代の史料に鎌倉幕府という用語は存在しないものの、勢力を識別する名称ならば存在している。当時の史料から探すと、権力組織としての識別は「関東」、そのトップである源頼朝は「鎌倉殿」であり、地名がそのまま権力の概念を示す用語として登場している。つまり、当時の人達は新たな権力構造の概念を地名で表すことで納得していたのである。それは、六波羅や福原を平家の代名詞として評したのと類似しているとしても良い。ただし、短命に終わった平家政権と違い、源頼朝が鎌倉に構築した権力は太平記の時代までの一世紀半もの長さを記録することとなったのであるから、そこには当時の人たちには気づかなかった本質的な違いがあったとも言えよう。

 それは何も特異なことではない。

 歴史を振り返ると、国家を動かす巨大勢力の誕生の瞬間が明瞭な形で示されるケースと、明瞭に示すことが不可能であるケースの双方があることを否応なく目にすることになる。鎌倉時代のスタートの年号を教科書に書き記せなくなっているのも、鎌倉幕府の誕生は後者であるがために、鎌倉時代のスタート年も明瞭に示せないからである。しかし、本作は鎌倉時代のスタート年を明瞭な形で記すこととなる。鎌倉幕府が強力な組織として成立した瞬間を書き記すからであり、その瞬間こそが鎌倉時代のスタート年となるからである。

 

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ
にほんブログ村