平家物語の時代 ~驕ル平家ハ久シカラズ~ 125/359 | いささめ

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 平清盛の福原遷都は容赦ない批判を受けたが、源頼朝による都市鎌倉の建設は批判を全く受けていない。理由は明白で、源頼朝は鎌倉という都市を構築することは狙っても、鎌倉を首都にしようとも、ましてや皇族の方々や貴族に移り住んでもらおうとも考えなかったからである。

 源頼朝という人は平治の乱で敗れるまで京都で貴族としての教育を受け貴族としての日々を過ごしていた人である。源頼朝の脳内ある都市とは平安京のことであり、鎌倉に都市を築くとすれば平安京を模した都市となるのは必然である。

 良く言われるのが、鎌倉は三方を山に囲まれ、残る一辺は海に面した防御に適した土地であるという評価である。その評価は間違っていないのだが、それだけが都市としての鎌倉の評価基準では無い。鎌倉は飛鳥時代には既に交通の要衝として存在しており、杉本寺や長谷寺など奈良時代から続く寺院もあるほか、東海道の要衝として万葉集にも登場するほどの土地である。また、気候が温暖で京都と比べて雪の降る日が少ない。関東平野をはじめとする周囲からの食糧供給も期待できることから、首都京都と比べれば少ない人数に留まってしまう可能性が高いがそれなりの人口を抱えた都市となることも可能だ。ただ、現在の鎌倉は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜まで建物がひしめく土地であり一つの都市として成立しているのに対し、当時の鎌倉は北と南に分かれていたのである。現在の鶴岡八幡宮に沿った山の麓のあたりは農民の住まいが点在し、相模湾に面した海岸沿いには漁師の住まいが点在していたものの、その間の土地が湿地帯になっていて田畑が広がってはいるものの、庶民の住まいとなるとその数は少なかった。

 この時点で源頼朝の想定していたのは父祖伝来の土地である鎌倉を自らの重要拠点とすることであり、後に鎌倉幕府を開設するほどの大都市とするほどに発展させることまでは想定していなかった。源頼朝にとっての最終的なゴールはあくまでも上洛して平家を打倒することにあったためか、治承四(一一八〇)年一〇月時点での都市鎌倉に対する源頼朝の行動は、鶴岡八幡宮の移転と、鶴岡八幡宮の東の大倉に鎌倉における自らの住まいを用意することだけである。

 まず治承四(一一八〇)年一〇月九日に大庭景義を責任者として源頼朝の邸宅の建設工事を開始させた。新しく建てる時間は無いため、知家事ちけじ兼道が鎌倉の北の山内に所有していた屋敷を大倉に移転させることとなった。吾妻鏡によれば正暦年間に建設されてから一八〇年以上も経ていながら一度も火災に遭ったことはなく、それは建物に安倍晴明の守り札が貼ってあるからだという言い伝えがあったという。 

 鶴岡八幡宮の移転は治承四(一一八〇)年一〇月一二日になってから始まった。八幡宮を祀るため小林郷の北山に社殿を造営して鶴岡八幡宮を遷し、專光坊良暹を暫定の八幡宮長官職とした。ちなみに、源頼朝の邸宅の建設工事の責任者である大庭景義が鶴岡八幡宮の事務担当も兼務している。先に工事を開始した源頼朝邸宅建設よりも鶴岡八幡宮の遷御を優先させよというのが源頼朝からの指令があったため、工事の優先順位を制御させるための兼務である。

 源頼朝の軍勢がいかに巨大になったとは言え平清盛のように無尽蔵の資金があるわけでは無く、莫大な資産を要する都市建設にまでは手を出せない。そこで、都市建設の中軸を鶴岡八幡宮に担わせることにしたのである。鶴岡八幡宮を鎌倉北部に移設することで、陸路で鎌倉に入る場合に鶴岡八幡宮に立ち寄ることができるようにしたのだ。この時代の寺社は宗教施設であると同時に宿泊施設も兼ねている。需要があれば供給が生まれるとはよく言われる言葉であるが、実際には先に供給があり、その後で需要が生まれる。鎌倉が交通の要衝であり、交通の要衝に宿泊施設でもある宗教施設を建設する、それも八幡宮という由緒ある宗教施設があれば、鎌倉は通過点ではなく泊まる場所になる。鎌倉を通る人、そして、泊まる人の多さは、そうした人に向けてのビジネスを作り出すことで生活できるようになることを意味するようになる。農業や漁業といった一次産業だけでなく、二次産業や三次産業も鎌倉で生まれるようになれば、鎌倉は都市として自然に発展していく。もっとも、その他の本格的な都市鎌倉の建設については二年後に始まり、源頼朝がこの時点で始めたのは都市鎌倉の下地作りである。二年間は都市の自然発展に任せていたとも言えよう。

 ちなみに、源頼朝の軍勢の鎌倉入りの次に鎌倉にやってきたのは、ある意味では源頼朝がもっとも恐れた、それこそ生涯に亘って恐れを抱いた人物である。

 北条政子だ。娘の大姫とともに避難していた北条政子が娘とともに源頼朝の元に戻ってきたのである。

 八月二〇日に源頼朝が軍勢を組織し、相模国に向けて出発する直前に文陽房覚淵のもとに避難させてから約五〇日を経ての再会であった。

 

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