🌸継体天皇の妻と皇子たち2(婚姻による勢力拡大)
⛳手白香命三姉妹と継体天皇父子の婚姻結合
☆継体天皇の天皇即位
*手白香命との婚姻を前提としていた
☆『日本書紀』によると、継体天皇即位後もヤマトに入らず
*樟葉宮から在位5年目に綴喜、 12年目に乙訓に遷都し
*20年目にヤマト入りして磐余玉穂に宮を定めた
☆継体天皇即位の反対勢力によって
*ヤマト入りが阻止されていたとする理解が根強いが
*婚姻という視点に立つとき
*そのような考えは成り立たない
*継体天皇と手白香命の間に早い段階で
*欽明天皇が生まれている
☆記紀では欽明天皇の生年は明らかではない
*欽明天皇は539年に即位した際
*「自分は若く知識に乏しい」と述べており若年の即位だった
☆継体天皇父子は、手白香命の三姉妹をキサキに迎えている
*前王統と北陸集団の二重の婚姻結合だった
*5世紀の倭王権は、内部に複数の王族集団が並存していた
*その競合のなかで大王に相応しい人物を
*安定的に輩出できるようにするシステムだった
*継体天皇の北陸集団もその一つであり
*継体天皇の即位は5世紀の論理に則っていた
☆王族集団同士の競合がエスカレートすると
*それは対立につながる恐れがある
*世代が下がるごとに王族集団相互の結合は薄れていく
*結果として王権の分裂という危険性がはらむ
*それを防ぐ手段として婚姻による再結合が図られた
☆継体天皇と手白香命の婚姻は
*そうした歴史的文脈のなかで捉える必要がある
⛳継体天皇の本来の名前
☆『古事記』では「衰本抒命」
*『日本書紀』では「男大述天皇」又は「彦太尊」
☆継体天皇について一文字目は「衰」「男」等など
*多様な字が用いられている
☆発音はヲで、ヲは「男」の字を当てるように
*雄々しいという意味を合意する
☆継体天皇の真名は「フト」である
*雄々しい美称を冠してフホト(ヒコフト)という名が
*一般的に伝わったものと推定される
☆古代人の名前、核となる真名と付随する美称で構成される
*ヒコ(彦)やヲ(男・雄)の他にも、タリ(足)・コ(子)などを
*挙げることができる
☆継体天皇の曽祖父であるオホホドエとの対比で
*「大フト」「小フト」と捉えることも可能ではある
*類例としてオホサザキ(仁徳)とワカサザキ(武烈)がある
☆継体天皇の場合
*父のウシエと同じ論理の呼称と見なす方が整合的である
*曽祖父のオホホド王との系譜的対応による
*名前の創出と理解する必要はない
⛳継体天皇の称 号(命、天皇、大公王)
☆継体天皇の称号
*『古事記』は「命(みこと)」、 『日本書紀』は「天皇」
*『上宮記』一云では「大公王」
*「天皇」称号の成立は7世紀成立の称号である
☆ミコトの尊称は、蘇我稲目の娘にも用いられている
*ミコトの称号は王族や大王だけが用いるものではない
☆『上宮記』一云の「大公王」は他に用例がない
*「大公王」は特殊な称号である
*「公主」は、中国の皇族女性に対する呼称
*古代日本では公主号が本格的に導入されることはなかった
*律令国家では内親王号が採用された
⛳継体天皇の皇子たち
☆安閑天皇はカナヒ、宣化天皇はタテが残る
*欽明天皇はヒロニワが残る
*ヒロニワは8世紀に阿倍広庭や紀広庭など
*人名での使用が認められる
☆継体天皇の息子たちの実名は不明なのだ
*それに比べて、継体天皇は、実名が推定できるという点でも
*貴重なのである
(敬称略)
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⛳出典、『継体天皇』より記事、画像引用
『手白香命三姉妹』『継体天皇の称号、命、天皇、大公王』
(ネットより画像引用)

