『自分自身の存在』 | けいきちゃんのブログ

🌸 何が「私」を一続きにするのか3


「ちゃんと」まとまること、小さな「大きな物語」
 ☆小説家柴崎さん

 *自身の小説を水戸黄門的な小説と対比している

 *水戸黄門的とは、結末のカタルシスに向けて

 *予定調和的に、すべてが展開する構造を持つ作品である

 *水戸黄門の印籠のように明かされ

 *勧善懲悪の復讐が行われてスカっとするという

 *判で押したような構図になっている

 *水戸黄門的物語にはある種の中毒性がある

 ☆柴崎さんの『わたしがいなかった街で』

 *視聴者が求めているものは結局予定調和的な

 *カタルシスであって、御涙頂戴、勧善懲悪であっても

 *そのオチに当たる部分をいかに盛り上げるような

 *部分が少ない

 *物語を作りこむのが自分たちプロとしての仕事だと

 *主張する業界関係者の話に

 *悲劇みたいなものが待ち受けでないと

 *おもしろく感じられないのは

 *もったいないのではないかと反論している

 ☆柴崎さんの小説において、物語性への抵抗は

 *こうした作品を制作する上での考えに限定して

 *表明されているわけではない

 *物語というものが、結末に向けて伏線を張り

 *それを回収していくプロセスなのだとすれば
 *黄門的な作品の作り方への異議申し立ては

 *具体的な小説の登場人物の行動においても

 *同様に、近年の作品群では繰り返し再現されている

⛳定型発達者の自分自身の存在を支える典型的な有りかた

 ☆その集団が共有する物語に落とし込まれた

 *意味関連のうちにぴったりと嵌め込まれてあることだと

 *考えることができるのではないかという見方もある
 ☆起承転結が決められた物語に息をするように

 *同調できることは、別の小説では
 *「秘密の連絡網」と名づけられています

 ☆『星よりひそかに』『ビリジアン』自伝的小説では

 *暗黙の規範から自動的に締め出される登場人物が

 *繰り返し描かれていいる

 *こうした特定の集団が共有する意味関連性が、

 *一定の広がりの集団内で一定の時間的持続を持って

 *保持される状況を、「小さな「大きな物語」」と呼ぶ

 ☆ケーガンは、生きることの価値を

 *一次的な快・不快の足し算引き算で計算し

 *直接この一次的な快・不快に関わらないことがらであっても

 *職を失うとか勉強するとかを「道具的」と名づけて

 *快・不快に結果としてつながるところに

 *その価値があるので

 *結局は快・不快の演算で換算できると考えていた

 *死はその場合、それ以降生きていたとした場合の

 *快・不快の演算によって予想される逸失利益であると

 *いうのがケーガンの主張でした
 

⛳柴崎さんの小説において

 ☆自分に欠けたものとして希求されているのは

 *快・不快とは直接関係のない

 *「ちゃんとした」ある種の一貫性です

 ☆そこで欠けていると感じられていた一貫性は

 *同時にそれに対して抗わなければならないと感じられていた

 *『小さな「大きな物語」』に嵌め込まれてあることと

 *おそらくは表裏一体の関係にある
 

⛳ケーガンの「形而上学的接着剤」の実体は何か

 ☆柴崎さんの小説で繰り返し問題になっている

 *「小さな「大きな物語」」が

 *もうひとつの形而上学的接着剤の候補として

 *クローズアップされた

 ☆形而上学的接着剤が剥離することによって

 *もたらされる第二の死

 *社会的死の問題を取り扱う

                     (敬称略)
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⛳出典、『「わたし」が死ぬといくことの哲学』記事、画像引用

 

『自分自身の存在』

(ネットより画像引用)