「北条高時」「東勝寺」「足利尊氏」「新田義貞」 | けいきちゃんのブログ

🌸北条高時(鎌倉時代)激動の時代に生まれた愚将

 

北条一族の滅亡
 ☆鎌倉幕府第14代の執権となった北条高時、北条一族と共に自害した

 ☆高時、鎌倉に攻め込んできた新田義貞に追い詰められ

 *高時が命を絶ち、鎌倉幕府の歴史にも終止符が打たれた

 *幕府において、強大な権力を誇つてきた北条氏は滅亡した
 ☆高時は、名門一族の最後を飾るには、ふがいない人物だった

高時、現実に逃避して遊びにふける
 ☆彼が執権になったのはわずか14歳

 *高時に代わり、北条家の執事だった長崎高綱が実権を握る
 *長崎高綱がクセ者だった
 ☆高綱とその跡を継いだ子の高資は

 *若くて病弱だった、高時の足もとをみて

 *汚職や賄賂など悪政の限りを尽くした
 ☆高時の祖父北条時宗が執権の座にあった頃

 *日本は、元から三度にわたつて攻め込まれている

 *幕府は撃退したが、多大な犠牲を払って戦った

 *全国の御家人に十分な恩賞を与えることができなかった.
 ☆鎌倉幕府は、元寇以降その求心力を急速に失っていった
 *高時は、幕府の屋台骨が傾いた不運な時代を任された
 *権力を掌握した長崎親子が好き勝手な振る舞いをした

 ☆高時も一度は高資の暗殺を謀ったことがあるが、計画は失敗した

 *高時は現実から目をそむけるように政治そっちのけで遊びにふける


高時追いつめられて自害に追い込まれる
 ☆隠岐島に流されていた後醍醐天皇が島を脱出し再び挙兵した
 *高時は、討伐すべく足利尊氏を差し向ける
 *幕府に見切りをつけた尊氏は北条氏を裏切り
 *京都における幕府の出先機関である六波羅探題を攻めた

 ☆関東で兵を挙げた新田義貞が鎌倉に攻め込んだ
 *義貞率いる反幕府勢の猛攻により幕府側の武将倒れていつた
 *高時は、 一族と共に屋敷の裏手にあった東勝寺に立てこもる.
 *高時に残された道は、自害することしかなかった.
 *鎌倉は北条一族の血に染まり、高時の代で終焉を迎えた
 ☆鎌倉の東勝寺跡に残る「北条高時腹切りやぐら」

 *北条氏の減亡の地として、今もよく知られている

                      (敬称略)

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「北条高時」「東勝寺」「足利尊氏」「新田義貞」

(『日本史の黒幕』より画像引用)