南北朝動乱(千早城の戦い・鎌倉攻防戦) | けいきちゃんのブログ

🌸千早城の戦い
 

 ☆楠木正成、ゲリラ戦を展開して鎌倉幕府軍を翻弄する

鎌倉時代の千早城の戦い
 ☆幕府が元寇で手一杯の間

 ☆天皇家では皇位継承をめぐる争いが起きていた

 *持明院統と大覚寺統の二派に分かれ、正統性を争う

 *幕府は両統から交互に天皇を出すことを提案する

 ☆幕府の介入に憤った大覚寺統の後醍醐天皇

 *倒幕を決意し挙兵し、天皇を助けるため、楠木正成は下赤坂城を築いた
 *足利尊氏率いる幕府軍により城は陥落し天皇は隠岐に流された

 ☆一度は逃れた正成だが再び下赤坂城を奪い挙兵

 *幕府は赤坂城・千早城を攻めるが

 *幕府軍、正成の巧みな戦術に翻弄され撤退を余儀なくされた

赤坂城をわざと幕府軍に奪わせる
 ☆逃れてきた護良親王を擁した楠木正成
 *下赤坂城で幕府軍と戦う

 ☆大軍で攻める幕府軍に対し、長期戦が不利と考えた正成

 *城に火をかけて幕府軍に奪わせた

 *幕府軍は顔の見分けのつかない焼死体を見て

 *正成らの死体だと判断して引き上げた

 

千早城で幕府軍を翻弄する正成
 ☆幕府軍に対し、楠木正成はゲリラ戦を展開する


勝軍の将、楠木正成
 ☆南朝―の知将であり勇将

 ☆赤千早城の戦いでは寡兵ながら、大軍の幕府軍を相手に奮戦
 ☆正成は最後まで天皇軍として戦う
 *後世に忠臣と讃えられた

 ☆幕府軍が引き上げたことで各地で討幕が起こる


🌸鎌倉攻防戦

 

 ☆鎌倉幕府を滅ばした新田義貞の一撃

 

南北動乱の鎌倉攻防戦
 ☆元寇の戦後処理の不備と、北条得宗家の横暴での御家人たちの不満

 ☆後醍醐天皇の倒幕運動と結びついて爆発した

 ☆足利尊氏が幕府を裏切り六波羅探題を襲撃した

 ☆関東でも御家人・新田義貞が幕府に牙を剥いた.
 *義貞は拠点の上野国から150騎で進発

 *途中で諸将と合流しながら鎌倉に突入した

 *当代の得宗・北条高時を自害に追い込む
 ☆約150年続いた鎌倉幕府は滅びた

 

軍を3つに分けて鎌倉の西から攻撃

 ☆討幕軍は、軍を3つに分け鎌倉に突入した

 *他の場所で幕府軍を破った新田義貞西側から鎌倉を攻める

 *新田義貞は腰越から稲村ヶ崎から鎌倉を攻め込む

 ☆大館宗氏を極楽寺坂か坂から鎌倉を攻め込む

 ☆堀口氏は福呂坂から鎌倉を攻め込む

 

新田義貞は、稲村ヶ崎から鎌倉へ進む
 ☆急峻な崖のため、軍勢が通ることが困難だった稲村ヶ崎
 ☆新田義貞が潮が引くことを念じて黄金の太刀を投げ入れた

 *潮が引き、稲村ケ崎から進軍出来るようになった
 *稲村ヶ崎を渡った新田義貞軍は、幕府の背後を突いた

 

勝軍の将、新田義貞
 ☆鎌倉幕府を滅ばした源氏の名門
 ☆足利尊氏と同じ清和源氏の一族

 *新田氏は北条から不遇の扱いを受けていた

 *一族の再起をはかって後醍醐天皇側についた

 ☆鎌倉幕府が滅びると

 *後醍醐天皇の行動は武士たちの疑心を生む

                         (敬称略)                                     

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⛳出典、『日本の合戦』

 

 

 

 

南北朝動乱(千早城の戦い・鎌倉攻防戦)

(『日本の合戦』記事より画像引用)