古代~中世の戦乱5(保元の乱・平治の乱) | けいきちゃんのブログ

🌸保元の乱

 

 ☆国の権力闘争が初めて武士同士の戦いで決まる

 

平安時代の保元の乱
 ☆後三条天皇の代になると天皇の権力が復活

 *白河、鳥羽天皇も親政を敷く

 *譲位したあとも政治を行う院政を開始した

 ☆鳥羽上皇

 *子の崇徳・近衛天皇に代わって政務を執り続けた

 ☆父に不満を抱く崇徳上皇

 *関白・藤原忠通と対立していた弟の頼長が接近

 *忠通は後白河天皇と結んだ
 ☆近衛天皇が崩御

 *崇徳の子ではなく、弟の後白河が天皇に即位した

 ☆上皇と天皇の対立は激化

 *各々の味方となる平氏・源氏の武将を招集

 *保元の乱となり、戦いは後白河天皇側が勝利した

 ☆崇徳上皇は流刑となった

 

夜襲を決断した陣営が勝利する

 ☆後白河方の源義朝・平清盛らが率いる軍勢
 *崇徳方が籠もる白河殿を急襲

 *先制攻撃が功を奏し、4時間ほどの戦闘で勝敗は決した

 ☆崇徳方でも源為朝が夜襲を提案していた

 *南都の僧兵を頼みにしていた藤原頼長がこれを拒否していた

 ☆結局、夜襲を仕掛けた方が勝利する結末となった

 

合戦の影響

 ☆平清盛の評価高まり武家政権確立が前進する
 ☆乱は天皇家、摂関家、武家ともども肉親同士での潰し合い

 *父と弟を失った源義朝の力は弱体化した

 ☆平清盛は論功行賞で高い評価を受け、政治的影響力を持つ
 *政の頂点へと突き進んでいく

 ☆保元の乱は、武家政権のきっかけとなった

勝軍の将、後白河天皇
 ☆鳥羽法皇の子で保元の乱後譲位する

 *上皇、法皇となり院政を敷いた

 ☆平氏の力増してくると、平氏を討つ算段を企てる

 ☆政権が源氏に移ってからも頼朝と弟義経の軋蝶につけ込み

 *武家の力を削ごうとした

 ☆己の立場を利用したしたたかさ、変わり身の早さから
 *頼朝に「大天狗」と兪やされた

 

🌸平治の乱

 

 ☆信西打倒のクーデターは清盛の一人勝ちで終わる

 

平安時代の平治の乱

 ☆白河上皇の院政

 *再び朝廷内で政争の火種が燃え上がった

 ☆平清盛より下位となってしまった源義朝

 *院の近臣・藤原信頼に取り入って出世の機会をうかがう
 ☆義朝は清盛の留守を狙って院の御所を襲撃

 *上皇の側近で信頼の政敵・信西を自害させた

 *邪魔者が消えたことに気を許した信頼

 *政治を独断で取り仕切る

 ☆清盛は密かに天皇と上皇を避難させる

 *清盛は、信頼・義朝追討の宣旨を得て内裏を襲撃する

 *義朝は信頼とともに戦うが敗走
 *信頼は捕縛のうえ斬首

 *義朝は逃亡中に部下の裏切りで殺された

 

成否を分けた藤原信頼の失敗

 ☆クーデターを起こした藤原信頼と源義朝

 *二条天皇と後白河上皇を平清盛に奪還されてしまう

 ☆この失態に義朝は、信頼を罵った

 *「日本一の間抜け者に協力してバカなことをした」

勝軍の将、平清盛
 ☆貴族政治を終わらせた平氏の棟梁

 ☆平治の乱では一度信頼に従うふりを見せつつ

 *その間に二条天皇を女装て内裏から脱出させた

 *大局を見る目に優れていた

 ☆乱後は立身出世を果たし政界に君臨した

 ☆娘たちを摂関家や天皇家に嫁がて権力を盤石なものにした

 ☆日宋貿易を開始して富を築く
 *神社や寺へ積極的に寄進した

平氏一門が繁栄し没落していく源氏
 ☆戦いに勝利した清盛は、武士として初の公卿となった

 *その後、朝廷の最高職である大政大臣に任じられる
 *朝廷の高位高官のほとんどを平氏―門が独占

 ☆敗北した源氏は一族の多くが殺害され、急速に衰退
 *義朝の3男で嫡子・頼朝は一命を取り留め、伊豆に流された
 *20年後、頼朝は平氏打倒の兵を挙げる

                          (敬称略)                                     

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⛳出典、『日本の合戦』

 

 


古代~中世の戦乱5(保元の乱・平治の乱)

(『日本の合戦』記事より画像引用)