🌸「死」を問う2
⛳なぜ人は「自分も死ぬ」と確信できるのか
☆肉体の崩壊と消滅は、常に他人にしか起こらない
*死んだ経験のある人間は、この世に誰一人いない
*なぜ自分も死ぬと確信できる理由
*われわれの存在が他者のコピーで始まっているから
☆自分の体を自分で作った者はいないし
*自分の名前を自分でつけた人間もいない
*肉体も社会的人格も他者から与えられたものだ
*だから、死も他者のコピーなのである
☆他者の身体に起こる崩壊が
*「自分にも起こる」と確信したそのとき
*まさに「死」の観念(自分の死)が発生する
*他者の体の崩壊過程に「老い」と「病」を見ることが多い
*他者の崩壊を自分の「死」としてコピーする場合
*当然その過程も含めて理解する
☆実際には、老いと病は経験だが
*死は純粋な観念であり、いかなる連続性もない
⛳死について語れる人間はいない
☆世の中にあふれる死についての語りは
*死を語っているのではない
*多くの場合、死ぬまでの話か、死んだ後の話にすぎない
*死そのものは語れるはずがないのである
☆「臨死体験」
*死の経験ではない、当人は生きているのだから
*「臨死体験」を語れるのである
☆「脳死判定」
*死が絶対的に「わからない」純粋な観念であることを、
*最も端的に示している例である
*誰にもわからないから、ご時世の都合で適当に決めて
*法律で強制できるのである
☆死は、いかにしても語ることはできない
*語られた死は死ではない
⛳人間に「死後の話」を欲望させるもの
☆死は語り得ないが、死後についての話は世に尽きない
*恐山(恐山菩提寺)は、「霊場恐山」と呼ばれていた
*大概の人は、「幽霊の出る恐いところ」と思うだろう
☆幽霊や霊魂が存在するか?
*死後の世界があるのかないのかなどの疑問について
*仏教では、お釈迦様の時代から、公式見解が決まっている
*それは「答えない」という答えである
*この態度を称して「無記」と言う
☆死後の世界「ある」と言うなら
*この話はすべて生きている人がしているのだから
*それは当然「死後」の話ではない
☆死後の世界「ない」と言い切れるか?
*これだけ人類が熱心にし続けている話が
*根も葉もないでっち上げと言う根拠もないだろう
☆根拠不明にもかかわらず
*世に「死後」の話の需要は厳然と、大規模に存在する
*この需要はどこから来るのだろうか
*それは不安からだろう
*死の不安が、「死後」の話を欲望させるのだ
⛳死と同じように「生」も絶対にわからない
☆死が絶対にわからないなら、恐怖することはできない
*人が「死ぬのが怖い」と言うとき、何を言っているのか
*「怖い」対象?
①死ぬまでの身体的苦痛だろうし
➁「死んだらどうなるか」という問題だ
*それらは、「死そのもの」ではなく
*「死ぬ前」と「死んだ後」の話にすぎない
*「前」は医療の問題であり、「後」は宗教の領域にある
☆「後」の問題で肝心なのは「自分の死後」の話だ
*「死の不安」は、「自分が存在していることの不安」に
*直結している
*それゆえに人々は、「死後の世界」を強く求めるようになる
☆死が絶対にわからないことなら
*「生きていく」ということが
*行先のわからないまま歩いているのと同じで
*これは不安だろう
☆我々は、なぜ生まれてきたのか
*それが分れば、死の意味もわかるかもしれないと
*考えるのは、無理もないところではある
*死と同様、自分がなぜ生まれたかも、絶対にわからない
*われわれは事実として、何の理由も根拠もなく生まれる
*死の絶対的なわからなさと同様である
(敬称略)
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⛳出典、『「死」を考える』記事、画像引用
『「死」の経験者』『死後の後』『生まれた要因』
(ネットより画像引用)


















