「 関ヶ原古戦場8 武家と茶乃湯 美濃赤阪辺 」 洛中思案 | 徳川わ廣 のブログ

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「わ」、と書いてるのは「和」草書由来 徳川家和広は二人いますからね、もう一人は恐竜化石学者さん、

御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

17s 皐月十五日)
織田信長が造り、徳川が別荘として使った、美濃赤坂の 御茶屋敷

車止めからも降りて見て、沈とした風情がある、館囲いの残る、在所だった、茅葺きの門より入り、 風に鳴る竹林をば見て、奥の深き堀の桜の芽吹き等を見て廻った、帰りがけに、青竹をば切り落とし細かく細工する 老人と目があった、
老人は聞くとは為しに話してくれた、近くに行われる、法事の接待に使ふ箸をば青竹で作っていると、教えてくれた、


素敵に香る接待だ、

(美濃赤阪お茶屋敷跡)


 東軍は赤阪岡山の古刹の安楽寺に本陣を構へ大垣城に対峙する、
清洲城から進んできた東軍は西軍の城を次々落とし 石田三成 の眼前に 徳川家康 が姿を現した
天下合戦の本戦への場所、取りに来たのだ、



、そふして  四年後、
 美濃 赤阪の各集落の寄合の頭立つ者共寺に集められ 其処には 愛想もよく本多佐渡守よりの申し渡しが行われた、柔らかくの物言いであった、
先ずもって案ずるな 、千秋方屋敷である、陣構えにあらずして、此より この地の御配慮の事、下々をばに伝ふ、聞け、
堀をば築く故に人夫を村々組みて出せ、大工左官に従ひ働け、実にたまらない事に、働きには褒美もある、
と言ふ、近隣者共と堀りを叩き、柴木は刈り、堀に草など萌ゆる頃、土壁と茅葺き門の屋敷が出来上がり、草花竹木も選んで届けた、
しばし後に、とも揃ひ小袖羽織姿の騎馬、御徒武士に僧、女等 百人程連れた駕籠等が屋敷に入り 、程なく、
武士を連れた華麗な羽織小袖姿の騎馬の者、 駕籠が出入りをはじめ、ある時などには、南蛮人もいた、

それらが連れ立ち、茶屋敷の主様と何処ぞに出でて、行き戻る姿が見られ、我は、見たのじゃと、噂立ちでは、 
揖斐川や長良川に茶の湯の水を屋敷主様が汲みにきていた、 と言ふ、
ともの南蛮人が硝子の瓶子に汲んだ水を石の上に置き、其の水玉をば眺め見て、美しいと、屋敷主様が誉めていたかや、連れの駕籠にがの中には女人らし方も、ゐるらしひちゃ、穏やかな散策に屋敷周りの村人達は安心した、
心地よき時節にその模様が変わる、
佐渡守と違ひ、村々人男女関わらずに堀の使役に行された、
茶屋敷まわり二町には柵がうたれ  、近隣寺院の僧、村の大家(たいけ)庄のかしら立つ者も従わされた、それら者達は、近くの家屋 納屋に出され、摂取された、屋敷は、武士が使っゐ、紙背の御達しが下る、
当面 煮炊きは朝に於いて日に一度、
日有るとも無用にて出歩くな、
夜間出でた者は罪と為す、その訳 家方も同じなら者共罪と為す、
田畑は組に為りて行へ、行き戻り組合わせ足りぬときは罪と為す、
人を留めたる時も罪と為す、
此の仕置きに従へ、追ってさたが有る、此の度仕置きにそむかば斬る、女子供も連座し皆殺しの上さらす、
赤阪の地は数千人近くの武士と兵に囲まれた、

(武家諸法度)
、控えの者共に茶室よりおりて  饒舌であった、
あのな、
金地院よ 誉められた、
先の治部小輔石田三成、(ぢぶしょうしょう)の、御成敗にはな、遅参の失態事に自殺をばな 考へたものだ、事を為し、揃ひ、本陣をば整へ大阪城に入り足るな時に於ひて、
佐渡守とお前がな、それぞれ大広間にて秀頼様方と東軍 豊臣恩子の将と合わせるなと云ふ、
捨て置きし、  
今様の御成敗と為りつる事、皆忘れ、
緒将はお役宰相の認たがわすに、
それぞれ 不思議 をば心頼りに 和を捨て 不義隠しに一人ずつ勝手に思ふて為り果て、この大勝の和に謀反起こす者と為ると
お前等がな、言ふた、
な、大阪城へ大紋 小袖者うち連れな、彼之上様(頼むる上)と 進んだ、
つい思わずな、此の徳川にお任せなさりませと言ふたら 
よしなにと秀頼様 淀様方々がのたまふ、

あのな、それ 良ふ言ったと、彼之上様から誉められたの、昔し、秀吉様に会ひ 話しをば打合わせ 公儀の広間でな、
こちらにお任せあれ  天下安寧の御懸念は こちらが至しますと、
彼之上様も言ふた そうじゃ、


明日、江戸へ立つ  千 は豊臣に嫁いだ  やる、


彼之上様も翌々日はお支配の地と戻られる、

あのな、

機嫌ようにしておられる、僧は井戸をば使ひ茶を出すと、





(日本史跡研究会々長資料)
慶長九年1604s  美濃赤坂に徳川お茶屋敷として 岐阜城御殿を移築して作られた、寛永五年1628s には
岡田将監が作配に当たったが損傷激しく大半が取り壊された、


(三浦按針
Pilot 
William Adams)

「関東公方滅亡地 関ヶ原古戦場の旅7」

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