【山科の古刹を行く、日本史跡研究会長blog因り】 | 徳川わ廣 のブログ

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………(日本史跡研究会長blog因り一分抜粋)

 勧修寺         京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6



 真言宗山階派大本山。山号は亀甲山。



 『勧修寺縁起』等によれば、昌泰3年(900)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父・宮道弥益の邸宅跡を寺に改め、胤子の異母兄弟である右大臣・藤原定方に命じて造立したとされる。開山は法相宗の僧・承俊律師を迎えています。

 創建年代には異説もあり、延喜5年(905)、勧修寺は定額寺に列せられているが、この時の太政官符に「贈皇后が生前に建立した」との記述があり、胤子の没した寛平8年(896)以前に創建されたとも考えられる。

 天永元年(1110)、藤原為房の子・寛信が7世長吏となるなど、勧修寺は皇室・藤原氏の援助を受け栄えた。


 南北朝時代には、後伏見天皇第7皇子・寛胤法親王が15世長吏となって以降、勧修寺は宮門跡寺院となり、以後幕末まで法親王ないし入道親王が入寺しています。

 建武3年(1336)、『勧修寺寺領目録』によれば、加賀国郡家荘をはじめ、三河・備前など18ヶ荘という広大な寺領を有し、最盛期を迎えていることが分かります。

 その後、応仁の乱や文明2年(1470)の兵火

によって寺は焼失。また、豊臣秀吉が伏見街道を造った際には境内地が削られるなどし、次第に衰退していきます。



 天和2年(1682)、霊元天皇皇子・済深法親王が29世長吏として入寺すると、法親王が東大寺大仏殿再興に功があったとして、寺領は1012石に加増され寺は再興することとなる。
                               (宸殿)

 勧修寺境内にある宸殿は、元禄10年(1697)、明正天皇の旧殿を下賜されたものという。入母屋造、桟瓦葺き。内部は書院造となっている。明治5年(1872)9月、学制公布によって勧修小学校が開校すると校舎となっています。………


(両方会長photo因り)