【江戸の風情に触れる (改め ) 】洛中思案 | 徳川わ廣 のブログ

徳川わ廣 のブログ

アメーバは比較的にソフトに書いてます
「わ」、と書いてるのは「和」草書由来 徳川家和広は二人いますからね、もう一人は恐竜化石学者さん、

御上 徳川わ廣
Nihon koku Tycoon
(The August sovereingn or Grand Souverain" )

【 江戸の文化に触れる 浅草界隈 】
15/神無月十九

勝小吉のよふに記しやしよ


【江戸の文化に触れる】ことにしたから、様よ出ないか、
御堂々と言ふから、応じた、
一日目は後楽園から湯島まで

二日目はえんこ(浅草)でろでろ進むのだと史跡研究会長頼の達しである
かねての申し合わせ処で史跡研究会長ならびにが徒党を組んで進む

初め行く名所は浅草寺だぁ等言ってだが
その日は三社祭で中を抜けられねひ事が相判っている、
代わりに  待乳山 聖天から
今戸神社をば見分する事になってな
その後に奥羽へ通じる
千住宿街道に進む予定

馬鹿に面白ひ、こちらは普段の地の街中だが学門の者と回ると色々判るねひ

様も野郎女朗と御徒にて共に寄せるぞ

浅草寺は東照宮も置いた徳川祈願処であったが、
これは勝手に新興宗教化したので、全ての神仏の退去勅令を出してある、
もう観音とは何の関係もない、三社浅草神社に諸仏に遷宮した そして
浅草寺を守護せぬようにと上意をば出した
雷門立てた松下幸之助とは会った、浅草寺を新興宗教にした者が幸之助氏に頼み込まれ
連れてきた事がある、
ナショナルて勝手にブランド名使ったら松下さんも怒るわな   こちらも同じだ



あのな、上が宗教指導者と言うことだけで各門も戦国大名である平定したし
共に具足弓槍を持った者達 不義は許さねひのさ 次の御様の為にもな



上州高崎より来てる日本史跡研究会長は偶さかの浅草、折角だから とせう汁を喫したかった、実に勿体ねひなぁとが嘆く
この祭の人手だ、とせうけ屋前まで寄るにも難儀だ諦めろとさとす
研究会の淑女のしとりは
わらわは小鍋に並んだ御元気だった頃の生前のお姿が忍ばれて、不憫で御ざいまする 等と言う  

によろり


やひのやひ言いあひ浅草寺を遠回りし待乳山聖天を上る、
江戸の情けねひ事に高けひ山が少なく
愛宕山、お山(上野山)等数えるぽど
されどもね 御江戸は有難い事に富士のお山を眼目出来れる様に作られた都
実にかつちけねひもんだ
奥浅草の今戸や公園回りの地は公方浅草屋敷や普代直産達の組屋敷等や天保通宝の銅銭鋳造の金座も会った
叉今の住まいの橋場には渡し場があり対岸には牛島神社が有り賑わっていた
移築された牛島神社は言問橋の横に有るがその地は水戸徳川屋敷
徳川慶喜公方もかの屋敷を何度も通った水戸街道に有る

あのな  牛島神社の可愛らしい巫女さんより聴聞した



幕末、水戸徳川は尊皇派と佐幕派とで内紛状態となる
手薄になりがちな屋敷内にゐるとその場を襲われる者も多々にいた
明治に為っても内紛は続き主だった者達 三千人死んだとも云われている

この内紛より幕府の大本の考えも変わる
御参卿 御参家はお取り潰しはしない
基本幕府が介入しないのが 御定 であった
しかし幕府は仕置きをかえた
隣藩笠間に笠間牧野軍 幕府軍が攻め込む手はずを整えたが
これは総大将の者が臆病者で失敗する
「怪我人が出るから見合わせる」

本家長岡藩 老中になる 牧野忠恭(大給)がこちらの親族だ
全くなんて奴に幕閣は頼んだことか
後に水戸攻大将の この臆病者は幕府に不始末の事で三尺高い所とされる
結果、大君徳川慶喜公を水戸藩は支える事が出来なかった

幕軍集結地の笠間藩牧野はこちら達の分家になり先祖にも為る
亡くなられた笠間藩主牧野の御子孫は秋葉のヤマギワ電機にお勤めしていた
我が家の白物家電は此所で揃えている
今笠間牧野家で世に知られている人物は 前総理大臣 副総理 麻生太郎氏
あのな 笠間牧野さん達な大久保利通の子孫でもある



大川端(隅田川)まわりは火除け地とし、
さら地とし桜松草花をいけて遊山場になっていた
そこに仮小屋掛けの見世物が出来
歌舞伎等興行するように為
花川戸馬道から猿若丁の所には芝居道具屋が今だあったりする
こちらは合羽橋 松葉丁に三代住んだ、
この街は寺社町でもあり、もうしとつは芸人の町でもある
歌舞伎の看板書き芝居道具屋等の会社が有り
親たちは歌舞伎大道具さんたちに頼み込まれて 菊五郎の芝居を見たと聞いた
この菊五郎客の入りが悪いと主役でもむくれて
芝居途中に投げてしまう
俺は嫌だよ、帰るよ
やってる最中に穴あけるのは困るだろうよ
其で頼み込まれる
戦前の菊五郎はこういう荒事の名人だった



皆で待乳山の段々を登り本殿を見れば
大根が奉納されてる、
浅草田圃(たんぼ)のお百姓の奉納からきてるのか
観喜天だから太もも表してるのかねひ

下げた大根はおんもの箱に置いてあり自由に持って帰りやがれとつん置きしてある


今は隅田公園の木々で待乳山から大川は良くは観光出来無いが
きっと
江戸は川風ついと  
                          たもとに入れて
のぼせも覚めたろふ
                  良く良く大川の水も光ったろさ



この麓が「たけやの渡場」
向島と浅草 吉原までの曳舟の堀の跡が公園になっている
この跡地が細長い公園になっており吉原の山谷堀迄続いている
一段しくいのは川のあとだからたろふ

この先に今は人気の今戸神社がありそこへ進む、
此所に徳川御殿医 松元良順の屋敷があった
病に倒れた新撰組沖田総司が松本良順にかくまわれ、
夜な夜な明治政府軍を襲った そんな所だ、

この御殿医殿、大君慶喜公方が神経になり、はなはだ心労をば致し 不眠症になった
御殿医松元良順はアヘンを盛って三日間昏睡させた

慶喜公方様三日目に起き上がり

「よく寝た、名医である」

だせうだ


この松本良順の写真が残っている
西洋礼服を着た写真だが、礼服の上にふかしすぎの酒まんじゅうのせてんのかと思った
新撰組人気で参拝客が絶えない



このあたりに組長屋の御家人 下級武士達は内職に玩具を作りをしている
熊手をかいて
朝顔咲かし
ほおづき成らして
泥人形作り
戌や卯の玩具で今戸焼きと言われている
今戸泥人形は浅草の兎に角土産だねひ
今戸神社には今戸焼きの大層でかい招き猫がある
其が馬鹿に愛嬌のある招き猫

実は
上意っ  と喚きつつ(おめき)
いつか掻っ払ってやろうかな等考えたりする

嘘ぢや

さて此よりは小塚原は回向院へ、此処は幕府刑場の置場であった良く習う杉田玄白前野良沢の西洋手術の「解体新書」の腑分けをしたところで有名

それと幕末の「安政ノ大獄」「桜田門の変」に続く吉田松陰、橋本左内の塚がある、写真撮ったり研究会の皆は見学

十一代大君徳川家斉公と爺々は大喧嘩になり
討たれかけて 居合わせた者がお上の御刀奪い取りその場は事無きに済んだが老中は失職する
しかし松平定信の一代で終わったわけではない、
子孫達が幕末まで誰か枢軸に居た
老中 総裁として

そう こちらは吉田松陰を討った側だよ

千住小塚原の回向院でみて回るのは妙に凄まじくも  素晴らしい
大老 井伊直弼の「桜田門之変」はよく知られている
老中 安藤信正も桜田門の内側で命を狙われは逃げ切った

われらに先祖に団子食い逃げした者がおりその血脈が残っていたのだろふ

神君

三河に「銭取り」と言ふ地名がある
随分団子屋婆に追いかけられて 逃げ回り
通りかかった家臣を見付け銭を借りて団子屋の婆さんに払ったらしひ




松尾芭蕉も歩いた、奥羽に向かう千住宿へ 
千住宿の道はわきへ抜ける道が少ない江戸の趣がある街道
似た感じの道は成田山新勝寺の道が似ている
江戸頃の街道は道両側に旅籠だの茶屋だのみっちり、立ち並んで居たのだろふ、
街道草加の方に杉板壁の旧家が二軒残っているだけだか
江戸側の千住宿入口に本陣跡地の碑文がある
今は摩天楼に成ってしまっているが
此処で奥羽よりの大名行列は身志度して
江戸に入ったのだろふ、


飯盛り女もいるべぇ


街道の終いに蕎麦屋があり
皆でして寄せる
品書きに蕎麦がきが有りしとつ取る
蕎麦がきはどんぶり鉢に粉を入れ沸かした湯を掛け回し、ぐりぐり箸でぶんまわして作るやり方と
回ぐり箸でぶんまわした後まんじゅうの如くや、木葉の形にととのへて湯に放つもんがある
この見世は後者だった、湯桶からすくい、蕎麦つゆ、したじをかけて喫す
実に好物
お初の者は嬉しかったらしひ、浅草でも今は品書きに近頃には少なくなった
蕎麦がきを入れた湯桶が赤漆でこさえてあり、長年使われ良い風合いを出していた
研究会会長も称賛の漆の湯桶が素晴らしいひ


江戸町探訪の終いは浅草から上野の寄席鈴本へ、
落語の発祥の地は上野下谷神社で小屋掛けから始まった
仏壇屋の並ぶ町にでかい鳥居の神社だ

へぇっ お忙しい所 よおも お寄り下さんしたと、咄家が云ふが

暇だから来てんだ





(Google因り

秋冬に千住大橋より夕まぐれに西にお山が見える 実にありがてへ

((追記:老中 堀田正睦( ハリスとの交渉)と老中 安藤信正(和宮)を間違えてました)

http://if1.storage.gree.jp/album/06/61/8760661/860af27c_640.jpg