昨日(20101105金曜日)、私の身の回りでリスペクトする詩人にしてうたうたいの奥村ひでまろ先輩のライブがあるってんで、会場の豊中市東豊中町4丁目の『スペース草』(旧中央環状線沿い)まで自転車で馳せ参じた。
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ひでまろ先輩との出会いは、今から2年半前にさかのぼる。
原田和郎マスター兄の店の『レコードバーJOKE(音楽道場と呼んでいる)』に行き、たまたま一緒に呑んでいて、その日の内に『元マネージャーにして現在は演者』という互いの自己紹介をして、すぐに意気投合させていただき、『身の上話や生きていく上で必要な話』をして楽しい時を共有させていただいている。
それからは、私がめったに行かない(原田兄すんません)割に、必ずと言って良いほど、同店のカウンター席にホロ酔い加減のひでまろ先輩が先にいて
「お~徳丸!、元気やったか~!」
と毎回握手してお声をかけてくださり、音楽話が軸ながら、楽しい会話を肴に、美酒を楽しむ間柄の末席に加えていただいた。
私から見たら気の良い,近所の昔から知ってるお兄さん(今身の回りにいる恩師義兄弟姉妹も皆そんな感じ)って感じながら、なんでか出会う前から聞き覚えあったお名前だったんで、何をされてた人なのかは、初対面の時はあまり話してくれなかったし思い出せなかったが、次第に打ち解けて行ったそんなある日に、手持ちの音楽資料を紐解くと、実は『元憂歌団の事務所の社長にして敏腕マネージャー』として紹介されて一瞬恐縮したんだが、このことを知って、次に会った時にこの話をしてみると
「そんなこともあったけど、関係ないやん今をこうして生きてるしあわせと縁に乾杯!!(^O^)v」
って言ってくださり、ますます私はひでまろ先輩のファンになった。
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今週のキリの良い11月1日の月曜日に『JOKE』に約2ヶ月ぶりに行くと、ひでまろ先輩がいつもの感じでおられて、普通にいつもの楽しい会話をしていて、原田兄に
「徳丸!今回のオススメライブのフライヤーや。都合よかったら聞いて来い!(^O^)v」
と言われてこのライブのチラシ(写真一枚目)をくれた。
「今回の…」って言ったのは、毎回呑みに行くと、原田兄は『100%ハズレなしライブ』の告知をくれて、この部分は『天六 ブックカフェ ワイルドバンチ』の庄内斉マスター師匠同様に私の日記常連なんだから、原田兄も庄内師匠も悪い気はしないだろう。
原田兄は私の中の庄内師匠(前にたまたまフラリと『joke』に呑みに行ったら師匠がブルンネン新井兄先輩と一緒に呑みに来てる事がしばしばある)同様『ライブ、映画、お芝居、展覧会などの目利き』であり、なかなかお金の都合で全部は行けないながら、薦められたステージを見に行くと、絶対に外れがない。
ちょうどタイミング良く、私の古巣である『二代目桜川唯丸会』も毎年5月のゴールデンウィークにはお世話になってる『服部緑地春一番コンサート』のお膝元(ひでまろ先輩は同ライブの長年のスタッフの一人であり、レギュラー出演者)でなんで直感的に『行くべし』と囁き…呟き、即座に前金を支払って予め行くのをドキドキしながら待ち、当日は自宅(森小路駅らへん)から自転車で行ける、土地勘のある場所なので行った。
少しお話は横道に逸れるが、以前からいろんな方面から、「ハートフルなシンガー」だと聴いてはいたんだが、実際にその歌声を未だに知らず…。
初めての演者を聴きに行く時は毎回毎回
「もしも、オイラのキライなジャンルやったらイヤやなあ…」
と誰でも思うだろう。
今回もそうだった。
初めて会った時に、原田兄に
「こいつアホなんですけど(ってなんだよ兄!(^。^;))、音頭取りで一応ミュージシャンなんですが聴いたってもらえますか?。
(私の方に向き直り)よっしゃ、徳丸!江州音頭、ひとふし聴かせたってくれ!」
と促されて、たいてい『淀の川瀬』というネタの冒頭部分の『枕かたり』をする。
ひでまろ先輩は、私の未だに叔父弟子(唯正、唯清、唯玉)たちと初代唯丸師匠に厳しくも優しく指導されたが、彼らの足下に及ばない、私の拙い江州音頭に、
「ええなあ~(^O^)v。
まさかここで江州音頭聞けるとはオモワなんだわ~(^O^)v」
いつも拍手して頂けるのは照れくさいながら、独立してから、もう、江州音頭なんて辞めるつもりにしていたが、やはり、続けることにした。
初めて聞いて頂いた時は、なんで喜んでくれたのかわからなかったんだが…後に京都滋賀奈良兵庫大阪つながり、そして、若い時から数々の流転と彷徨を繰り返し、黒人音楽…ブルースにたどり着いて傾倒された、と知り合点がいった。
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話を先輩のライブに戻そう。
ドキドキしながら、会場に開演10分前に着き、楽屋にまわって、以前から先輩が興味を示していた『ダイエーの韓国ビール』を差し入れ、今回のステージのゲストであり、名前はやはり、よくうかがうバイオリン奏者の杉本(Q)仁美さんを紹介していただき、たまたま自己紹介していて、
「そういえば、あした、阿倍野区松崎町あべの消防署並びの『TEC日本調理師学校』真向かいの『ロック食堂』に行きますよ(^O^)v」
と杉本さんが言われて、私もグラム師匠兄さんの溝内マスターとは昨年12月9日土曜日に『勝手にどんと(久富隆司)まつり』(過去日記参照)を発起プロデュース…みんなマスターや出演者に頼ってさせていただいたんで、
「ワケアリで長いこと行ってないんで、グラムロケンロールマスター兄によろしくお伝えくださいませ(^。^;)」
と会話した。
杉本さんは、最近、ひでまろ先輩のサポートゲストをする様になったらしい。
話している内に私がなんやらかんやらとお世話になってるミュージシャンの複数の先生・御先輩方ともかなり共演されているらしい事がわかる。
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いよいよライブが始まった。
しかも、以前からの仲間の位置、
以前からのファンのみなさんの聴く位置、
客にして押し掛け現場マネージャーなのに、な~んでか!!おふたりと対峙したかぶり付きで聴いてるオイラ(ToT)&(^。^;)。
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声が意外にも美声にして温厚なお人柄が伝わる、ライブ会場の雰囲気、
いつも一緒に呑んでる時と変わらないライブ進行。
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ただオイラのソロライブ(ハウスミュージシャン時はプロ意識が働くんで除く←ここ重要!!)との決定的な違いは、オイラと仲間たちとの悪ふざけに終始するところを
ひでまろ先輩のライブは一秒も聴き漏らせないエンターテイメントショウに昇華されているところである。
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さっきまで大爆笑したかと思ったら、
急に社会人として秘めた思いを呼び覚まさせてくれる、拳を振り上げる事を思い出したり、
遠い人…会いたくても会えない人に贈る曲などを、計算も何もなく(ある程度はあるよ)…その時の気分でうたう…。
私は生まれて初めてライヴハウスで泣いた。
やってる時に親のことを思い出す。
それは、こないだ政宗と話したこととか、
死んだおかん千鶴子が浅川マキのファンだった事をフッとひでまろ先輩のうたごえと重なった瞬間だった…。
人の目も気にせずに号泣した。
さぞかし、ひでまろ先輩も杉本さんもやりにくかったろう。
大の四十男がoioi(元パンクス!!)と泣いていたのだから…。
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音楽を聴いて泣いたのは、あうんさん・すうじぃのライヴを初めて生で聴きに行って以来、二年半ぶりの事だ。
そのライヴがハネたすうじぃが感謝の意味を込めて連れて行ってくれたのがレコードバー『JOKE』で、原田マスター兄に出会い、僭越ながら可愛がっていただき、マスター兄に同月にひでまろ先輩を紹介された。
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会場にはひでまろ先輩の古くからの友人で『春一番コンサートの父』の福岡風太さんがお見えになっておられた。
翌日(昨日)、面白がって桜川唯正(初代桜川唯丸会→二代目桜川唯丸会)叔父弟子に電話すると
「なんでお前、奥村さんとか福岡さん知ってんねん(◎o◎)」
と言われて、
あまりの感動に不思議がっていたが、事情を話すと
「あ~さよか~(^O^)v」
と合点してくれた。
音頭界広しといえど、そういった話しに乗ってくれるのは、私、唯正兄か御大(初代唯丸)しか知らないが、御大も兄も『音楽』と呼ばれるモノにすべてに興味を示して聴いている人である。
私の破門原因のひとつなんだが、もっともっと師匠方は自分の好きなジャンルの音楽だけに固執せずに、音頭や演歌以外の音楽を聴いて欲しいと思う。
なぜ桜川唯丸会や若亀会の櫓に老若男女が集まって来るのかは、BPM(♪=120)で音頭を奏でて、ロックバンドの形態で音頭取りが音頭を詠んでいるからである。やりにくいけど。
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私が憂歌団や小林万里子&鷲尾悠持郎や有山じゅんじ(門真出身)といった『ナニワンブルース』を真剣に聴く様になったのは、縁あって江州音頭会に入ってからのことだ…。
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今日のライヴを聴いて、『ひでまろ先輩』もとい『奥村ひでまろ』という、『うたうたい』の大ファンになった。
これから先、いつの日か、大切な人が出来たら、その人と一緒に聴きたい
っと深く想った。
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つまり、音楽に善し悪しなんてないのだ!!。
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最後にふたつ
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ひとつ目はタイトルが『奥村ひでまろ叛ライヴ』で『叛』という厳めしいタイトルが付いてはいる。
謀叛でしか使わないこの『叛』という字は『ほん』と読む。
意味は読んで字の如しなんだが、分解すると『半』『反』。
つまり『はんはん』と読む。
ライヴ中に気が付いて『上手い!!』とつぶやき、『やるなあ~ひでまろ先輩』と愉快な気分になった。
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で、もうひとつ…
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ひでまろ先輩に業務連絡
![カラオケ](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/168.gif)
『お疲れ様でした。楽しいライヴでものすご~く嬉しかったっす\(^O^)/』
『また寄せていただきます。
そんときだけ、また現場マネージャー勉めさせてくださいm(_ _)m。』
『ライヴ中はおとなしくしますよってに(ノ△T)』
『また、ジョークで呑みましょう!!m(_ _)m&(^O^)v』。
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※写真一枚目、ミニアルバム『黄昏』
写真二枚目、奥村ひでまろ著『私家版極私的憂歌団』(初出は1988、再版が現在も入手可能)
写真三枚目『同ライヴ』のフライヤー。
(了)
(追補・2024=令和6年1月19日 金曜日)
今年の1月6日土曜日にひでまろ兄貴が逝ってしまった。
昨年7月下旬に、これまた趣味の先輩の濱田兄貴が経営する阪堺電車松虫駅前の『BAR 異議なし!』で、ダンシング義隆先生と秋田兄(鶴見橋『みのや』元店主、以後秋兄、『りりィ』他の元敏腕マネージャー。やはりすごくお世話になったお方)とひでまろ兄貴のジョイントライブが予定されてたが、結局、ひでまろ兄貴は体調不良で出演キャンセルをされた。
3人で帰宅途中に義隆先生と秋兄に、ひでまろ兄貴の話を聞くと
「ひでまろ、少しづつ復調して来たから、また、ライブやるから、そん時は徳丸来いよ!」
と言われて楽しみにしていた。
しかも、義隆先生は、もちろんだが、秋兄、ひで兄と、元々ビデオカメラマンからマネージャー志望で、嘉門さん門下に混ぜてもらったので、3人とも仕事した経験があるので面白がって可愛がって下さったのだろう。
そういえば、私の親友の飯塚銀次(1967~2011)が急死してしまった時、飯塚が大好きで一緒に歌った『夏の終わりのハーモニー』(井上陽水&玉置浩二)とひでまろ兄貴の『同じ月』を繰り返して聴いて見送ったことを思い出し、また、そのことを話すと
「人間の死ぬこと言うのは、決して悲しいかなじゅんばんではない。
どうしても、長く生きてたら、徳丸が、その親友を失った辛さは俺も経験したからわかる。
でも、自分の命尽きるまで、自分のペースで生きようや。
俺もそうするから…」
と言ってくれた事を思い出す。
ひで兄、ありがと。
拙いけど出来る範囲で、兄貴の衣鉢継いでいくわ。
( 追補 了)