藤沢周平「喜多川歌麿女絵草紙」をもう一度読む | 凝り性 勝之進のこだわり日記

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★Livin' On A Prayer★Once upon a time Not so long ago・・・ 
 

来年2015年の大河ドラマは
「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」
(つたじゅうえいがのゆめばなし)
というタイトルです。

 

その原作にもなっているようなので、

再度読み直しました。


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タイトルの最初の二文字「蔦重」は、

本名・蔦屋重三郎(1750~1797))

の略で、江戸中期に活躍した版元

(はんもと、今の出版社)です。

蔦重は、戯作・狂歌本・錦絵などを
出版しましたが、目利きの力があり、
歌麿と写楽を世に送りだした
ことでも有名です。

その喜多川歌麿(1750頃~1806)は、
蔦重と同年代の浮世絵師で、
その美人画は大変な人気でした。

一方、東洲斎写楽(生年・没年不詳)は
謎の多い人物で、1794~1795年に
役者絵を中心に、蔦屋から約150枚の

浮世絵を出したあと、忽然と姿を消し、
氏素性についても、ほとんど手がかりが
ありません。

1787年、将軍・徳川家治が亡くなり、
家斉が第11代将軍に就任します。

 

家斉は、腐敗政治の元凶であった

老中・田沼意次を追い出し、当時、

白河藩主だった松平定信を老中首座に

つけて、改革に乗り出します。

これが1787年から1793年まで行われた
寛政の改革です。

定信は、天明の大飢饉に対応しながら、

食糧備蓄と農業回復に努め、
財政支出を抑え、風紀の乱れを
取り締まり、倹約を促します。

代表的な施策としては、


◆各藩での米備蓄の奨励(囲米;かこいまい)
◆他国への出稼ぎの制限
◆江戸に流入した農民の地元帰還を命令
(旧里帰農令;きゅうりきのうれい)
などがありますが、

中でも評判が悪かったのが
◆徹底した倹約令と、風紀取り締まり、
そして、朱子学以外の学問の禁止
(寛政異学の禁)でした。

定信は、版元に対して出版制限をかけ、
思想を統制したほか、

風俗や政治に悪影響を与える本や、
噂を流布する本をことごとく
発禁処分に処しました。

これにより、民衆の生活は、
一気に窮屈なものになりました。

改革が行われていた当時、

40歳ぐらいだった蔦重と歌麿は、

この弾圧をかいくぐり、
捕まらない工夫をしながら
本や絵を出版し続けるのですが、

歌麿は、ついに1804年に
捕まってしまいます。

直接的には「太閤五妻洛東遊観之図」
という秀吉の花見を描いた絵が
禁止ルールに抵触したという容疑でした。

歌麿は、手鎖50日の刑を受け、
その後病気になり、2年後の1806年に
失意のうちに亡くなりました。

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これらの基礎知識を踏まえて
掲題書を読み直しました。

本書は、稀代の名文家・藤沢周平先生が、
歌麿と蔦重と瀧澤馬琴を主人公にして、

浮世絵のモデルの女性の人生を
感性豊かに描写した小説です。

登場する、おこん、おくら、
お糸、お品、おさと、といった女性は、
殆どが、吉原や市井の女性です。

どの女性も、人に言えない過去や、
苦しみ悩む思いを抱えながら、
それを見せずに明るく生きています。

ただ、時々、笑い顔の下から
暗い影が覗く瞬間があり、

歌麿は、そうした瞬間を写し取り、
謎と潤いと深みのある浮世絵を

描いて行きます。

本書は、藤沢先生が、そうした姿を、

生き生きと描写して小説にしたものです。

 


◆おときは酒をつぎながら言った。
「あたいもいつか描いてくださいな」

◆(お糸)「あたいの絵が町で

売られたりしたら、あの男が

きっと気付いて探しに来るに

決まってます。

それが怖いんです、あたい」

◆こいつは仕事にならねえや。
歌麿は筆をおいた。
お品の全身を皮膜のように

覆い包んでいた、もの悲しいいろは

消えてしまっている。

◆歌麿と顔を合わせると、

おさとは立ち止まって、
眼をこらすようにして

じっとみていたが、
「あら、先生」と言った。

無感動な声だった。

◆「お千代がどうした?」
「台所をのぞいたら、隅の方に
お千代さんがいて、泣いてますよ」

「うっちゃっとけ。泣きたい奴は、
泣かせておくのが一番だ」

◆だが、(馬琴のように)ああして

本当に書きたいものを手さぐりして、

頭を悩ませている頃が、一番生きるのに

張り合いがある時期なのだ。

おれは、描きたいものを

全部描いてしまったのかもしれない、
歌麿は、そう思った。

沁み入る名作です。


    寛政三美人はどこに行けば見られるのだろう。。。勝之進