信長公が切り拓いた道を行く旅(2)~要衝の地・岐阜城~ | 凝り性 勝之進のこだわり日記

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★Livin' On A Prayer★Once upon a time Not so long ago・・・ 
 

今年11月に行った岐阜観光については、
(1)を書いたところで

W杯が始まってしまい、

続きを書けないまま

大晦日になってしまいました。

このまま越年するのもスッキリしないので、
短くまとめて書いてしまうことにしました。

それでは、信長と岐阜城について

書いて行きます。


◆まず、岐阜城はどこにあるのか、

ご存知ですか。こちらです。



岐阜市のすぐ近くにありますね。

関ヶ原かから京都・大阪に

続く道が通っています。

◆ここで重要なのは、川の流れです。
岐阜城は長良川のすぐ南にあります。

重要なのは、岐阜城のより南は、
伊勢湾までまっ平らな平野である
ということです。

実は、濃尾平野の地下の地層は
東から西に傾いていて、

養老山脈の下に沈み込んでいます。

そのため、長い年月をかけて、
川の流れが西へ西へと

移動していきました。

木曽川の流れを見ると、
西に向かってから、
「く」の字に折れ曲がって
南に流れていますよね。

そして「く」の字の下流では、
木曽川、長良川、揖斐川という
大きな川が集まって流れていますので
 

下流域は、山地でまとまった雨が降ると
すぐに氾濫する土地柄でした。

つまり、ぬかるむ濃尾平野は、
平城を作るには適さない土地柄であり、
山間部の南端にある岐阜城より南には
堅牢な城は築けないのです。

そして何より、岐阜城は、
グーグルマップもドローンもなかった
戦国時代において、

平野部がどのくらい浸水しているか、
船や兵がどう動いているか、
稲の実りはどのくらいか、など、

戦国の武将にとって重要な情報が
一目でわかる場所だったのです。

さらに、山の斜面もかなり急峻ですので、
守るにも攻めるにも、まさに最適の場所が
岐阜城でありました。

とうことで、信長が岐阜城を

欲しがったわけは、この地が、

軍事、貿易、情報収集に最適な
要衝の地であったためです。

◆では、天守閣に登ってみましょう。

詰み直した新旧の境目がわかる

石垣の上に立っています。

最上部まで登ると
360度のパノラマが
広がっています。

長良川の蛇行も良く見えました。

信長公も、敵が攻めこないか、

ここから眼をこらして

見張っていたことでしょう。

◆また、信長公は、岐阜城下で

税負担の少ない楽市楽座を始めました。
市内の橿森神社には、

その跡が残っています。

行き交う人馬、荷物、砂ぼこり、
道端で自分の売りたいものを

売ろうとする人々の声。。。

その活気と喧騒は、まさに

「東洋のバビロンだ」と
フロイスは書いています。

目に浮かびますね。

楽市楽座なかりせば、

楽天のブランド名も
別のモノになっていたことでしょう。

◆そして、あまり知られて

いないかもしれませんが、信長公は、

金華山の南側の斜面を使って、

壮大な金色の御殿と

水を巧みに使った庭園を造り、

賓客をもてなしました。

 

三重の塔とロープウェイ。

 

公園事務所で、ARを貸し出していて、

ipadをかざすと御殿が見えますので、

楽しく観光できました。

 

◆信長公が、天下布武を発出した

気概を感じる岐阜城でありました。

 

    半兵衛が一夜で乗っ取ったというのも凄い。。。勝之進