富山 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 富山の城下町は、加賀藩の生き残りを賭けて誕生した町ともいえる。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕えて、越中・加賀・能登において119万石余の領地を誇った大名前田家。しかし、加賀金沢に本拠を置いていた三代藩主前田利常(としつね)は、窮地に立たされる。外様大名であった前田家が力を保つことを恐れた三代将軍徳川家光は、金沢城を修復しようとしたことなどを理由として、前田家に幕府への謀反の心あり、と非難したのである。

 これを受けて、利常は寛永16年(1639)、ある決断を下した。長男光高(みつたか)に領地80万石を譲り、自らは越中新川(にいかわ)郡を主とする22万石を領して、小松城に隠居した。さらに、次男利次(としつぐ)に10万石を、三男利治(としはる)に7万石を与え、それぞれ富山藩、大聖寺(だいしょうじ)藩として立藩させた。その理由は、権力、財力の集中を避け、徳川家との緊張関係を和(やわ)らげて、前田家の安泰を図るためであった。

 富山藩主となった利次は、慶長14年(1609)の大火のあと、荒廃していた富山城を修復し、城下の本格的な整備に乗り出した。しかし富山藩の家臣団は700人を超え、その禄高は9万石と、藩全体の石高の9割を占め、財政難が続いた。この窮状打開に大きく貢献したのが、「富山売薬」であった。売薬は二代藩主前田正甫(まさとし)の元禄年間(1688~1704)に始まったとされ、その効き目と代金の後払いという販売方法で、一躍その名を馳せた。江戸中期以降、富山藩の「国家第一の商(あきない)」といわれるまでになり、藩財政に大きく貢献した。そして天保15年(1844)には、千余人を数えた売薬商は、街道をたどって全国に薬を運ぶと共に、江戸、大坂、京都などの文物を富山にもたらした。

 一国内にとどまっていては繁栄は期待できません。他国と自国との比較で、初めて違いに気付き、劣っている部分の修復が可能になります。現代でも、将来においても同様で、「井の中の蛙大海を知らず」では、進歩は期待できないでしょう。