豊後(ぶんご) | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 大分市は、近世の城下町で、かつては「府内」と呼ばれた。

 「壇ノ浦の合戦」直後の文治元年(1185)、源頼朝は「豊後を領地に」と朝廷に願い出た。国司、国人(こくじん)らが、弟である義経の謀反に同意したためである。豊後を最初の直轄領とした頼朝は、大友能直(よしなお)を豊前、豊後守護職兼鎮西(ちんぜい)奉行に任じた。以来、大友氏は豊後を支配してきた。

 キリシタン大名大友義鎮(よししげ・宗麟)の時代の永禄2年(1559)には、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の六ケ国などを領有し、大友氏は九州北部に君臨した。しかし天正14年(1586)、薩摩の島津氏が豊後に侵入。翌年、豊臣秀吉が出陣して九州は平定され、豊後国は宗麟(そうりん)の嫡男である義統(よしむね・吉統)に安堵された。しかし、吉統は朝鮮出兵で失態を演じたとして豊後は没収された。これにより、鎌倉時代以来22代にわたった大友氏の豊後支配は終わりを告げた。

 江戸時代、幕府は豊後に天領と小藩の領地を複雑に入り組ませ、小藩分立政策をとった。これは、長年培(つちか)われた大友氏の勢力を分断するためとされる。

 慶長6年(1601)、竹中重利(しげとし)が2万石の藩主として新たに府内城下を築き、万治元年(1658)には、譜代大名の松平(大給・おぎゅう)忠昭が城主となった。以後、松平氏が明治維新まで府内藩を治めた。海路で伊予国に向かう伊予街道をはじめ、多くの道が通じた城下は、豊後随一の繁栄を誇った。

 江戸幕府は、外様大名には十分に気を使い、「アメ」と「ムチ」の政策をとりました。しかしこれは、統治する上では当然で、現代でも、ライバルに対しては強権だけを振り回してはうまくゆかない。ある時は「懐柔政策」をとり、ある時は「強気で対応する」。人の使い方は、一様では成功しないのですが、日本では、年功序列で上下関係が決まり、役職者に対する適切な教育がなされてこなかった。そのため、本人の経験だけに頼ってきたことで失敗する例が多かったのでしょう。気の合った仲間づくりだけでは人間関係はうまくいきません。