強運 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 元和5年(1619)、徳川二代将軍秀忠は、紀州和歌山を支配していた外様大名の浅野長晟(ながあきら)を安芸広島に移し、自分の弟である徳川頼宣(よりのぶ)を紀州藩主に据えた。これは、西国大名に備え、陸路と海路の要衝の地紀州の守りを固めるためであった。これを機に、和歌山の町は御三家の一つ、紀州55万5千石の城下町として発展していく。

 その紀州藩に江戸時代中期、強運の持ち主が誕生する。初代頼宣に続く、二代藩主徳川光貞の三男、頼方(よりかた)である。頼方は、兄たちが次々に死亡したため、宝永2年(1705)に22歳で五代紀州藩主となり、五代将軍綱吉の一字をもらい吉宗と名乗った。当時の紀州藩は、藩財政窮乏の危機にさらされていた。そこで吉宗は、自ら木綿の衣服を着用し、食事は1日2回、一汁三菜と質素倹約の手本を示した。また、藩の北西部である伊都郡の小田井堰(おだいせき)などを開削、灌漑や新田の開発を進め、名君としての評価を高めた。

 その後、吉宗は、33歳で江戸幕府八代将軍の座に着き、「享保の改革」を行なうなど、「幕府中興の祖」と称えられた。

 

 運が良い人、運に見放された人など、人の一生を単純に「運」だけで決めようとする人がいますが、人の一生は「運」だけで決まるものではありません。どんなに「運」が良い人でも、見えないところ、他者の見ていないところでの「努力」は、並大抵のものではないはずです。本当の努力は、他者が見ていないところでするもので、人が見ているところでの努力は「見かけ倒し」、あるいは「単なるパフォーマンス」に過ぎないのではないでしょうか。真の努力は「己のためにするもので」、決して他の者のためにするものではありません。