遠野物語 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 東北芸術工科大学東北文化研究センター所長の赤坂憲雄氏は、「『遠野物語』が内包し示唆する東北、そして日本の村の姿」とそて、次のように語っています。

 『遠野物語』は、現在の岩手県遠野市を中心とする一帯が、物語の舞台です。私は無意識のうちに、外界から隔絶され、閉ざされた遠野という小さな集落で「伝説異聞怪談」が生み出されたと思い込んでいました。ところが実際の遠野郷は、東京二十三区の面積を越える広大な地域に集落が点在しています。山に囲まれた盆地ですが、その中心は遠野南部氏の城下町で、遠野街道をはじめ東西南北に街道が四通発達した、開かれた「ムラ」だったのです。柳田国男は、その晩年の著作『資料としての伝説』に、「伝説はあたかも北海の霧が、寒暖二種の潮流の遭遇から生ずるように、文化の水準を異にした二つの部曲の、新たなる接触面に沿うて現れやすい」という言葉を残しました。柳田が指摘したように、遠野のムラでも古来多くの人が行き交い、文化の水準をたがえる集団や人々が接触してきたからこそ、こうした多くの伝承が生まれたのです。

 例えば、『遠野物語』第63,64話に「マヨヒガ」の話があります。私はマヨヒガとは「迷い家」の事だと考えています。蕗(ふき)を採(と)りに山に入って、無人の民家に迷い込んだ貧しい村人の妻が、家の中にあった朱塗りの椀など豪華な食器や裕福な暮らしぶりを見て驚き、慌てて下山します。その後、家の前の川で洗濯していたこの妻の前に、美しい赤い椀が流れてきました。その椀で穀物を量ると、いつまでも食糧が尽きず、この家は、村一番の金持ちになったという話です。この話の裏には、里の民が山中漂泊の民、木地氏と出会い、何らかの交渉を持ったという、遠野の村人の歴史が埋もれていると考えることが出来るのではないでしょうか。

 第8話は「サムトの婆」の話。これは梨の木の下に脱いだ草履を置いたまま、行方知らずとなった若い娘の神隠し譚です。その娘は30年余り後、老いさらばえた姿で自分の家に現れたのですが、間もなく姿を消してしまいました。『遠野物語』では、その日は風が強く、「今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰って来さうな日なりと云ふ」と、余韻を残して終わっています。古来日本では、草履を脱ぐ行為は「あの世」へ旅立つときの作法で 風は、死者の世界から悪霊を運んでくると信じられていました。そして、その後、この家の人たちは、悪霊を再び村に入れないように村境に石塔を立て、「道切りの儀礼」を行ったということです。この話に出て来る30年余りというのは三十三回忌を意味しており、天(山)へ帰る死者を送るための最後の法要だったことをうかがわせます。 こうした儀礼は、遠野を含め日本各地の古い習俗にも見られ、この説話からは、日本人の他界観を読み取ることができましょう。

 実は、遠野の里には現在も「デンデラ野」と呼ばれる場所がありますが、『遠野物語』第111話には、この蓮台野(デンデラ野)が登場します。「昔は、60を超えたる老人はすべて此の蓮台野へ追ひやるの習(ならひ)ありき・・・」。デンデラ野は人里離れた山中にあるのではなく、現在の遠野市土淵町山口という集落にあり、誰もが日常目にする小高い丘でした、デンデラ野へ追われた老人は、日中は里で農作業を手伝うなどして食糧を得ながら死ぬ日を待ったということです。そして山口では、集落を挟んでデンデラ野と向かい合うように、墓地であるダンノハナがありました。このデンデラ野とダンノハナ、そして山口の集落の位置関係は、人々の死生観を目に見えるかたちで表しているのではないかと、私は考えています。厳しい自然環境の中で、度重なる飢饉や冷害に苦しんできた遠野の里人は、目の前のデンデラ野やダンノハナを眺め、日々、生と老いと死を意識しながら野良仕事に励んだのでしょう。

 生老病死は、人間には切り離せないものです。ところが、現代の人たちは、これらを遠い彼方においてしまい、今だけが楽しければ良いという考えが強すぎるのではないでしょうか。だから、常に「自己」が中心で、周囲の人間や動物は邪魔な存在だと感じる人がいるのではないでしょうか。そうでなければ、現代のような悲惨で残酷な事件などは起きないはずです。