渡来人 | 徳富 均のブログ

徳富 均のブログ

自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 昨日と同様、上田正昭京都大学名誉教授の文章です。

 渡来人とは、おもに古代から平安時代初頭にかけて、朝鮮半島や大陸から大量に移住してきた人々の総称。

 古代には、渡来のピークが4回ありました。最初は弥生時代、おもに新天地開拓を目的とした人々で「古渡(こわたり)」と呼ばれます。これに対して2回目以降、戦乱を逃れて亡命する人々も含まれた渡来人たちは、新しい文化や技術をもたらす人々が多くいました。

 ヤマト王権成立後、5世紀初頭の2回目のピークには、応神天皇によって百済から招請され、漢字や織物、酒造りを伝えたという王仁(わに)博士も渡来しました。3回目は5世紀後半から6世紀にかけての雄略朝を中心とする頃で、この頃に来た人々は「今来の才伎(いまきのてひと)」と呼ばれました。この時代になると朝廷は百済や新羅、高句麗など朝鮮半島としきりに交流します。そして最後のピークは7世紀後半、天智朝の頃でした。

応神天皇の時代(2回目のピーク)にやって来たと思われる渡来人の代表的な存在としては、アメノヒボコ(天日槍)がいます。新羅国王の王子とされるアメノヒボコの伝承は、『記』・『紀』・『風土記』など多くの古典に見られますが、その内容にはかなりの差異があります。

 たとえば、『古事記』には、逃げた妻アカルヒメ(阿加流比賣)を追って渡来したと記されています。一方、『日本書紀』では、渡来の目的は示されず、渡来時期も応神天皇の四代前、垂仁朝のこととしています。いずれにせよアメノヒボコは北九州を経て瀬戸内に入り、沿岸各国に立ち寄りながら、難波(現・大阪市)に着きます。そして陸路で近江(現・滋賀県)、若狭を経て、但馬の出石(現・兵庫県出石町)に着き、そこに定住したと伝えられています。

 アメノヒボコがたどった道筋には、彼を祀る神社のほか、播磨の千種(ちぐさ)川上流地域や近江の瀬田丘陵地域などに見られるように、製鉄に関する遺跡が数多く残っています。おそらく、彼らは5世紀に最新の製鉄技術をもって渡来し、日本の製鉄文化に革命をもたらしたのでしょう。また、『日本書紀』には、アメノヒボコの従者に「陶人(すえびと)」がいたことも明記されており、その従者こそ、当時最新の土器であった「須恵器」の陶工集団であったろうと思われます。

 アメノヒボコを祀る出石神社には、彼が持参したとされる宝物「八種神宝(やくさのかんたから)」が伝わりますが、その中には「浪切る比礼(なみきるひれ)」、「風切る比礼」など航海関連の呪物が多く見受けられます。また、平安時代前期成立の『古語拾遺』は、アメノヒボコを「海檜槍(あめのひぼこ)」と表記しています。これらの事実から、海との深い関わりが推測できるアメノヒボコとは、個人ではなく、実は渡来集団全体を表す象徴ではないかと思われます。そして、アメノヒボコに象徴される渡来集団は、最新の文化、技術によって日本という国の成り立ちに関与しつつ、この国の民として溶け込んでいったのです。

 ヤマト王権が確立するまでは西国でも出雲との覇権争いがあり、吉備国で大きな波乱があったことも、『記』・『紀』などに伝えられています。しかしその後、平和な地となると、西国はそうした先進文化が通る「回廊」としての役割を果たします。過所(渡航証明)も長門と難波という、瀬戸内を出入りする要港を通る際にだけ、必要とされました。

 いつの時代でも、技術の継承と技術開発がなされなければ国の発展・発達はない。そういう意味では、日本の中小企業が持つ優秀な技術が海外に流出している、あるいは今後も流出の危険性があるのは分かっているのですから、政府はもっとそれらを大切にすべきでしょう。金を出し、若い技術者を養成する。その後、安い賃金で彼らを拘束するのではなく、大企業並みの生涯賃金を保証する。そうすることで、日本の技術革新は万全なものとなるはずです。しかし、今の政治の現状を考えると、お先は真っ暗なのではないでしょうか。政治家のレベルの低さに呆れます。