高崎 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 高崎の西方約5㎞の鼻高(はなだか)に、少林山達磨寺(しょうりんざん だるまじ)がある。この達磨寺は、延宝5年(1677)に来朝し、水戸藩主・徳川光圀が深く帰依した中国僧・心越禅師が開いたとされる。また、高崎名物の「だるま」発祥の地としても知られている。起き上がりだるまは、蚕が起きる(脱皮すること)ことに通じ、養蚕農家の縁起物とされ、江戸時代後期から広く人気を集めてきた。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉から関八州を与えられ江戸に入った徳川家康は、北関東の押さえとして、「徳川四天王」のひとり井伊直政を、かつて武田氏などが治めた西上州の軍事拠点、箕輪(みのわ・現群馬県箕郷町)に封じた。その後、直政は、中世以来の宿場町「和田宿」に移転を命じられた。和田からは信濃に通じる中山道と、越後と上州を結ぶ三国街道が分岐する。慶長3年(1598)、この地に城を築き、「高崎」とした直政は、3年で近江国佐和山(現・滋賀県彦根市)へ転封となり、城主はその後、譜代大名の酒井氏、安藤氏、松平氏と変わった。城を完成させ、町を整備したのは、三代にわたってこの地を治めた安藤氏である。

 高崎に築城するに際し、多くの大工や鍛冶職人をはじめ、刀の研師(とぎし)らが集められ、職人町が成立。名産の絹を商う商家や紺屋なども増え、城下は発展していった。中心となった田町では絹・太織市が開かれ、「当国第一繁盛の大市」と言われるまでになった。中でも特産の「高崎絹」の商いは活況を呈し、「此の町諸国商人大勢入り込み、亭主亭主も多くは他国の人なり」という状態であった。

 城ができれば、それにつれて城下町が発展しますが、そこには「商い」が活況にならなければなりません。それは昔も今も変わらず、現在のように少子高齢化の時代、地方の経済をどのように活発化させるか、という問題は真剣に考え実行されなければならないでしょう。