竹生島 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 琵琶湖に浮かぶ、周囲わずか2㎞の竹生島には、5世紀半ばの起源とされる都久夫須麻(つくぶすま)神社と、8世紀前半に行基が開いたとされる宝厳寺(ほうごんじ)が建っている。双方の境内は渡り廊下でつながれているが、それはかつてこの神社と寺が、日本独自の神仏習合の信仰によって一体となっていた歴史を物語っている。

 『延喜式』神名帳にも見られる古社、都久夫須麻神社の主祭神は浅井比哶命(あさいひめのみこと)。古代にこの地方で勢力を誇った浅井氏の始祖霊を祀るとされる。しかし、弁才天を祀る宝厳寺が建立されてから、この島における信仰のありかたは次第に変化していった。平安中期以降、弁才天信仰が盛んになるにつれ、浅井比哶命の神格も弁才天に吸収され、島はまさに「弁才天の島」と化していった。もとはインドの河神で、日本においては福徳賦与の神とされていった弁才天を祀る竹生島は、貴族から庶民、やがては怨敵を滅ぼす神の島として、武家からも崇められるようになった。

 しかし、この聖なる島は、たびたび災厄に見舞われた。永禄元年(1558)の大火でも、ほとんどの建物が失われたが、再興に大きく貢献したのが、羽柴秀吉だった。秀吉の島への崇敬は篤く、自身にとって初めての城となった長浜城築城の祝いや、戦勝を祈願して、寄進を繰り返した、その死後は、遺命を受けた息子の秀頼が、慶長8年(1603)に伏見城あるいは、京都東山の豊国廟の一部を島に移築したと伝えられる。この時に、秀吉の御座船を利用して渡廊下が造られた。明治初期には、神仏分離令によって宝厳寺には廃寺の命が下されたが、信者たちの嘆願により、本堂を神社に引き渡すことで、その危機を免れた。

 城や神社など、明治維新で多くの建築物が破壊されましたが。政府の方針で信仰対象が変わるなどは認められないでしょう。どさくさの時期なので、国内を安全に収めようとする方針は判りますが、そのためには何でもしていいというわけではありません。しかし今でも諸外国を見ると、政府の勝手がまかり通っている国が多々ありますが、あれでは国民が気の毒です。民主主義は欠陥ばかりですが、中国やロシア、北朝鮮などを見ると、格段にマシだと実感いたします。