躑躅ヶ崎館 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 天正9年(1581)12月、武田勝頼は、祖父信虎の時代から本拠としていた甲府、躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館(やかた)を打ち壊し、西に約20㎞の地、韮崎(にらさき)に築いた新府城(しんふじょう)へ移った。その理由は、天正3年(1575)、長篠の戦いで織田信長、徳川家康の連合軍に敗れて以来、勝頼は劣勢を余儀なくされており、新府城に移ることによって再起を期そうとしたのであった。躑躅ヶ崎館の建物の破壊のみならず、植木までも切り払ったその徹底ぶりを、『甲陽軍鑑』は、勝頼の不退転の覚悟の表れであったと、伝えている。

 信虎は永正16年(1519)、父祖以来の居館があった石和(いさわ)の地から現在の甲府に入り、躑躅ヶ崎に館を築いて、1532年頃までに甲斐を統一したとされる。石和は、甲府盆地の東部に位置し、敵に攻め込まれやすく、笛吹川の氾濫によってたびたび洪水に見舞われてもいた。しかし、相川扇状地の喉元にある躑躅ヶ崎なら、水害の心配も少なく、東西および北の三方を山に囲まれているため、南に広がる甲府盆地を抑える自然の要害でもあった。

 躑躅ヶ崎館は、高さ3~6mもある土塁と、深い堀で囲まれ、東西は156間(約280m)、南北は106間(約190m)。その中には、東、西の曲輪(くるわ)と、居館(中曲輪)が次々と置かれた。

 信虎はまた、館の北東約2㎞にある積翠寺(せきすいじ)村の要害山(ようがいざん)にも城を築き、戦への備えとした。居館と城を分けて一対とするのは、駿河の今川館、越前・朝倉氏の一乗谷の館など、戦国時代の典型である。信虎は居館を政庁とし、この地を甲府(甲斐府中)と呼んだ。館の西に武田氏の氏神、府中八幡宮を置き、南に家臣団、さらに南に職人や商人を職業別に住まわせる町を設け、城下町発展の礎(いしずえ)を築いた。

 やがて館の主は、信虎の息子信玄、孫勝頼と移った。しかし信玄の死から8年後、勝頼は武田氏60年余の居城、躑躅ヶ崎館を破壊し、新府城へ。その翌年、勝頼は織田軍の猛攻の前に一族とともに自害。甲斐武田氏は滅亡した。

 「栄枯盛衰は世の習い」と言います。さらには、「諸行無常」とも言います。ですから人間は、良い時こそしっかりと足元を固め、次なる「不測の事態」に備えておかなければならないでしょう。ところが、人間は「現在がずっと続く」と思いがちになり、油断にとらわれてしまうのです。