伝馬制 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 古代東山道の阿知(あち)駅の所在地は、近世に伊奈街道の宿駅が置かれた駒場(現・阿智村)とされている。この地は甲斐の名将、武田信玄終焉の地でもある。30年余をかけて信濃、駿河、西上野(こうずけ)、飛騨、東美濃と遠江、三河の一部を制した武田信玄は、元亀4年(1573)、上洛の途中、三河野田城(現・新城市)包囲の途中で病に倒れ、甲府への帰路に駒場で没したのである。

 駒場から北東へ約10㎞、街道は飯田に至る。16世紀中頃以来、武田・織田・徳川氏と目まぐるしく領主を替えた飯田城に、天正18年(1590)、毛利秀頼が入城。以来、城下が整備され、伊奈街道に伝馬制が敷かれた。江戸時代を迎えると、飯田は伝馬町として発展。さらに、中馬の発達により、伊那谷屈指の交易拠点となった。

 中馬とは、近在の農民が農閑期に自らの馬を使って駄賃稼ぎとして始めた馬背(ばはい)輸送の事。宿ごとに馬を替えて荷を継ぐ伝馬と異なり、道中、同じ馬を使うため運賃が安く、輸送も迅速であった。そのため急速に需要が高まり、伊奈街道の主要輸送手段となった。とりわけ、伊那谷の経済の中心地で、中馬の中継地ともなった飯田は、一日の「入馬千疋、出馬千疋」といわれるほど賑わい、東海道からは塩、魚、茶などが、松本方面へも茶や塩のほか綿、椀、元結などが運ばれた。しかし、中馬の繁盛は伝馬制度によって口銭を得ていた各宿場の経済を脅かし、17世紀中頃から農民と宿場との紛争が多発し、一部中馬の積み荷を制限するなど妥協策も取られたが、両者の対立は数度にわたる江戸表での訴訟に発展した。そのたびに、中馬側に有利な裁定が下され、明和元年(1764)の裁許によって中馬は制度化された。

 飯田市街の北東、天竜川の河岸段丘の中腹には、座光如来寺が佇む。推古天皇の時代、長野善光寺の開祖本田善光が、難波の堀江で得た三尊阿弥陀仏(善光寺仏)を最初に安置したのがこの寺という伝承から、「元善光寺」と呼ばれている。

 山の多い日本では、「伝馬制」は必要なのでしょうが、「中馬」が出てくれば、伝馬制の欠陥は明らかでしょう。何事も、初期に作り上げた法律は、当然、欠陥だらけなので途中で見直さなければならないはずです。ところが、人間は利口でないですから、「意地」になって直そうとしません。だから、下々の者が苦労するのです。