西郷隆盛 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 西郷隆盛(幼名小吉)は、文政10年(1827)12月7日、鹿児島城下の下之加治屋町で下級藩士の長男として誕生。18歳で藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に就いた西郷は、幼馴染の大久保利通と未来を語り合う。そんな青年に、薩摩藩11代藩主、島津斉彬との運命的な出会いが待ち受けていた。43歳で家督を継いだ斉彬は藩の近代化を計り、人事刷新と軍備の拡張を重視した。開国か攘夷化に揺れる幕末。この気鋭の藩主は、一介の地方役人にすぎない西郷に新時代の政治家としての資質を見出したのである。

 斉彬の側近に取り立てられた西郷は江戸詰めとなり、斉彬が推進する幕政改革の一つである将軍継嗣問題に奔走。敬愛する藩主の手足となって働いた。しかし、西郷32歳の時、斉彬は急死。その後、西郷は佐幕に傾く藩に絶望し、尊攘派の僧、月照と自殺を図るが失敗し、奄美大島に3年間潜居。一度は召喚されたものの、藩主の命に背き、文久2年(1862)、徳之島、沖永良部島に約2年の流罪となった。薩摩藩が赦免船を出したのは、元治元年(1864)であった。それは、攘夷の先鋒、長州藩を京から追放し、公武合体派の徳川慶喜、島津久光らが京を掌握していた頃である。しかし、長州藩の処分をなどを巡り、慶喜と激しく対立した久光は、西郷にこの事態を打開させようとしたのであった。

 薩摩に戻り、藩の軍賦役に就いた西郷は直ぐに上京し、長州藩の起こした禁門の変(蛤御門の変)を制圧。続いて、幕府と長州が戦った第一次長州征伐では、長州藩を無血降伏に導き、「軍略家」西郷隆盛の名は広く知れ渡った。

 しかし、第一次長州征伐では幕府側に就いた西郷だったが、広い視野で日本を考えた末、討幕へと舵を切り、長州と同盟を結び、反幕の姿勢を固めた。慶応3年(1867)10月、大政奉還が上表され、政権は朝廷に返還された。翌年、戊辰戦争を主導し、東征軍参謀として、維新政府軍を率いて江戸城を囲んだ西郷は、幕臣勝海舟との談判により無血開城を実現させた。

 新政府が機能し始めると、西郷は地位も名誉も求めずに故郷に帰り、藩政の改革に取り組んだ。しかし、政府は西郷を手放そうとはしなかった。明治4年(1871)、岩倉具視や大久保利通ら政府首脳が、条約改正準備のため欧米歴訪に出発すると、留守政府は西郷に預けられた。西郷は、官制、軍制の改革、警察制度の確立などに奔走。しかし約2年後、帰国した大久保らは、新政府の実験を掌握しつつある西郷を怖れ、西郷が推進していた朝鮮への使節派遣の延期を画策。明治6年、大久保と決裂した西郷は、46歳で参議の座から退き、下野した。

 鹿児島に戻った西郷は、士族の子弟の為に私学校を設立し、後進の教育に専念する。しかしこの頃から、身分的特権を政府に取り上げられた士族は不満を抱き始め、明治10年1月、私学校生徒が政府軍の火薬庫を襲撃。西郷は学生たちの鎮静に努めたが失敗。ついに翌月、「オイの体は差し上げ申す」と勝ち目のない戦いを決意し、西南戦争に突入した。熊本城を包囲した薩摩軍だったが、救援の為南下してきた政府軍との田原坂での壮絶な戦いで大敗。政府軍に包囲された西郷は、明治10年9月24日、鹿児島の城山で自決、51年の生涯を閉じた。奇(く)しくもこの夏、地球に大接近した火星を西郷に傘ね、「西郷星」と呼んで畏れ慕った民衆は、「巨星堕つ」の報せを信じようとしなかった。無欲恬淡、情に厚い性格が人望を集め、維新の指導的政治家となった西郷隆盛。

人間の魅力や人望に勝れた人は、得てして他から妬まれますから、足を引っ張られる可能性が強いのではないでしょうか。