「不可落(ふからく)」の城 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 尾張徳川家の名城、名古屋城、古くは「那古野」と呼ばれた地に、最初に城を築いたのは今川氏とされる。しかしその後、戦乱によって廃城同然となっていた。この城の再興を命じたのが、徳川家康である。

 慶長14年(1609)、家康が尾張藩62万石の本拠を、清洲から名古屋に移す決断を下したのは、この地が、「日本中の勢(いきおい)を以(もつ)て責(せめ)るとも不可落」の要害とされたからである。北から西にかけて沼地が続き、その外側には木曾川をはじめとする多くの河川が走り、南は伊勢湾に臨む。まさに、西国に向けた雄大な自然の防衛線が形作られていたのである。

 城の設計施工は、伏見城、江戸城を手掛けた中井大和守正清が務め、翌年には、天下普請として、筑前の黒田長政や肥後の加藤清正などの諸大名を動員して着工し、5次にわたる大仕事は、大坂冬に陣の直前、慶長19年末に、おおむね完成した。城は本丸、二の丸、西の丸など五郭に分かれ、深い空堀や水堀を配し、西と南へ向けての防備は特に厳重であった。

 城下町は城の南に建設され、侍屋敷や町家、寺社に至るまで、計画的に清洲城下の住人が移住する「清洲越し」が実行された。また、元和2年(1616)に徳川義利(よしとし、義直)が城主として駿府から入ると、今度は「駿河越し」が行われた。こうして名古屋には人が集まり、物資が流入し、京、大坂、江戸の三都に次ぐ大都市となった。

 天守閣から城下をにらむ金の鯱(しゃちほこ)は、慶長大判1940枚に相当する黄金で鍍金(ときん)され、城下の果てからも望むことが出来たという。その輝きは、250年余の徳川家の威光を天下に知らしめてきた。

 金の輝きは、天下を獲った者にとっては魅力なのでしょうか。黄金の茶室、金の茶釜などは天下取りの大名が手にしてきたものです。現代でも、金にアクセサリーは垂涎の的なのでしょう。最も、金の価値が下がらない、あるいは、有事の金ということで、金を購入する人は少なくありません。限りのあるものは、需要と供給のかんけいから、どうしても高価になってしまいますが、金持ちにとっては、それを手に入れることが一つのステイタスだと思っているのかもしれません・・・。