竜馬がゆく
司馬遼太郎著 文春文庫
志士たちで船隊を操り、大いに交易をやり、時いたらば倒幕のための海軍にする---竜馬の志士活動の発想は奇異であり、ホラ吹きといわれた。世の中はそんな竜馬の迂遠さを嘲うように騒然としている。反動の時代---長州の没落、薩摩の保守化、土佐の勤王政権も瓦解した。が、竜馬はついに一隻の軍艦を手に入れたのであった。
---この時期には京ではすでに新選組が活躍しはじめている。幕府としては、毒をもって毒を制するつもりで、同質の人間を幕府側にひきこみ、京に屯集させ、おなじ攘夷浪人を捕殺させた。
---長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁をやぶる結果になり、明治維新に行きついた。この狂躁は列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制とそれぞれが日本と戦争できない国内事情があったことがさいわいした。さらにいえば、長州藩の攘夷活動のすさまじさが彼らに日本との戦争の荷厄介さを感じさせた。サムライのゲリア活動には手を焼くだろう。とおもったのだ。
---いわゆる攘夷活動は列強の海軍と戦うというのはそれ自体は無意味だら、外国政府に対して、日本人が他のアジア人とちがい異常な緊張力をもっていることだけは十分に示現した。これがトインビーのいう、「日本は、トルコ以東において西洋人に侵略されなかった唯一の国である」という結果にいくらかの影響を与えた。
---清河は、卓抜すぎるほどの批評家で、同志の無能を憎み、相手の慎重を怯だとし、しかもそれを攻撃する論理、表現はアイクチのようにするどく、相手が参ったといってもやめず、つねにドドメを刺すところまで言及した。
---容保は薩摩と手をにぎるはらをきめた。薩摩藩はみごとに会津藩を利用した。こののち数年後に、こんどは、叩きおとした長州藩と秘密攻守同盟を結んで、会津藩をたたき、幕府を倒し、人のいい会津藩を若松城に追いつめて、例の白虎隊の惨劇で知られる会津討伐戦を演ずるのである。
---江戸の町は、当時世界最大の都会のひとつで、人口は百万、ニューヨーク、ロンドンと肩をならべていた。この都会が世界最大の各都市とかわっているところは、その人口の半分の五十万が、生産者ではない武士であったことだ。
---この当時、武家育ちにしろ、町屋育ちにしろ、自分の習慣というものに頑固な男女が多かった。三百年のいわゆる封建文化がつくった、これは美しさの面かもしれない。
---明治二十七、八年の戦役で連合艦隊司令長官になった伊藤祐亨は緻密な頭と、慎重すぎるくらいの性格をもっていた。竜馬は「慎重もええが、思いきったところがなきりゃいかん。慎重は下僚の美徳じゅ。大胆は大将の美徳じゃ。将か士かは人のうまれつきできまるものだが、お前は大将修行をやれ」といったりした。
---なぜなら、百姓、町人という階級は、徳川の政策で自分の階級に矜りをもてないように訓練されてきている。「民は由らしむべし、知らしむべからず」という方針のおかげで、税金をとりたてられるだけの被支配階級になっており、社会に対する一種の「無責任階級」になっている。そういう階級からは私欲を無視して公共のために働こうという物好きが出にくい。
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ある代議士が現代の坂本竜馬になると発言した。かれは現代の町人レベルではないのか? ただし母親の資産は江戸時代の大名を超えるものがある。




































































