久しぶりに農作業日誌を書くぞ。
なお、農作業についての記事は自分のための記録のようなもので、多くの人の興味を引くとは夢にも考えていませんので、興味のない方はスルーしてください。
ところで、この「スルーする」という言い方だが、考えてみれば、英語の through は副詞や前置詞(まれに形容詞)としてしか使わない言葉なので、これを動詞であるかのように用いて「スルーする」などと言うのは、日本人が得意とする「英語の誤用」の一例だ。
日本の英語学習者が正しい英語を身に付ける上での障害になったり、無駄な遠回りを強いられる原因になったりしているだけのこのような和式用法やナンチャッテ英語は、なるべく使わないようにすべきなのだが、和製カタカナ英語を国内限定の日本語の一種とみなして、日本人どうしの意思伝達手段の一部と考えることは可能だろうし、いつか日本列島が強大な国際化のうねりに飲み込まれ、もしも将来 English が日本国民にとっての第2言語として位置づけられるような時代が訪れた場合は、今の日本社会にはびこるデタラメ英語の数々は、いやがうえにも正確なコミュニケーションが要求される状況の中で自然に淘汰されていくのではなかろうかと、私はけっこう楽観的に考えている。
外国語を自国語に組み入れてすぐに日常語として機能させてしまう柔軟さというか節操のなさを持つ日本人であれば、それが不要になったときは、やはりその事態に柔軟に、そして機敏に対応できるのではなかろうか。
というより、対応せざるを得ないだろう。
農業日誌のはずが、またまた脱線してアサッテの方向へ進みそうなので、本題に戻ろう。
毎年4月の中旬から5月にかけては、各種野菜の種まきや、苗の植え付けの最盛期である。
家庭菜園業界は書き入れ時を迎え、ホームセンターの園芸コーナーにはおびただしい数の苗が並ぶ。
野菜のバリエーションも豊富だ。
この期間が過ぎると、業者も消費者も、またしばらくのんびりできる。
私のささやかな畑も、これからが一年のうちでもっとも忙しい時期である。
家の西側にある畑にはジャガイモを植えているが、南側の畑は、ダイコンが終わったあと手つかずのままだったので、然るべき受け入れ態勢を整えなくてはいけない。
まず、いつものように消石灰を一面に散布する。
雨や空気中に含まれる様々な物質によって土壌が酸性化しているので、アルカリ質の石灰でそれを中和させるのだ。
今年は放射性物質も多少は降り注いでいるだろう。
耕運機で丁寧に耕したあと、畝(うね)を作るためのヒモを張った。
ヒモに沿って10本の畝をこしらえた。
1本の長さは10メートルほどだ。
サツマイモを植えるための畝も作った。
というより、昨年と同じ場所を耕し直しただけである。
こちらの長さは3メートルほどだ。
このスペースに、毎年およそ30株のサツマイモを育てる。
というより、土が育ててくれる。
あるいは、自然界の神秘的なメカニズムが、甘いサツマイモを私に恵んでくれる、と言うべきか。
サツマは、年によって出来と不出来の差が大きいが、それはおそらく栽培者としての私の未熟さに起因する。
私が持っている農の引き出しは、あまり多くない。
また、それぞれの引き出しの中身も充実しておらず、けっこうスカスカである。
もう少しいろいろな知識や情報をしまい込む必要がある。
そうすれば、もう少し収穫量が増えるだろう。
トマトと、ナスと、ピーマンのための支柱を立てた。
トマトの苗4株、ナス4株、ピーマン3株を、それぞれ来週あたりに植え付ける予定だ。
そのあとは、地球と水と太陽がこれらの野菜をはぐくんでくれる。
農の目的は、いうまでもなく収穫であり、あるいは食の確保であり、何千年も昔から人間が営んできたそれは生存への不可欠な自衛行動のひとつだろうが、自分の小さな畑でささやかながら自然との関わりを模索しつつ明確な意図をもって地面を食糧生産のための領域へと変貌させる農作業という行為を実践しているとき、人間と食の連鎖における原風景への回帰のようなものを感じることさえあって、農の意義はその行為にこそ集約され、結果としてもたらされる収穫は、しばしば人知を超えた干渉や不測の制約が伴う流動的な性質を備えているために、収穫そのものに農のあるべき姿を求めることはできないかもしれず、ときに人間たちを失望させ、あるいは喜ばせながらも、あくまで二次的な想定事柄として、やはり収穫とは不透明な予測の範囲を超えて存在し得ないのかもしれない。
農耕民族の遺伝子か何かがそんな原風景を私に感じさせてしまうのか、あるいは単なる勝手な思い込みか、それはわからないが、農を行なっているときに、どこかから何かが聞こえてくることもある。
たぶんそれは、大地のささやきである。
何をささやいているのか、それは謎だ。
農とは、あるいは野菜作りとは、謎と不思議に満ちた非常に原始的な生命維持行動である。
文化人類学の世界では、日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族だとされている。
今でこそ日本には背の高い人がたくさんいるが、ほんの数十年前までは、両者の平均的な体格にはかなりの違いがあった。
おおむね西洋人は昔から筋肉質で、体格が良く足も長いが、これはおそらく、獲物を追って原野を駆け回っていた狩猟民族としての名残りかもしれない。
日本人は、走り回る必要がなかったので、背も低く、足も短かったのだろう。
ただし、これは私の単なる推測であり、科学的な根拠はない。
10本の畝を作ったうちの、1本にだけエダマメの種を植えた。
この畝で、40株ほどのエダマメが育つ。
病害が発生するなどのアクシデントに見舞われない限り、90日ほどで食べられるまでに生育する。
この豆の収穫期間は短く、食に適するまでに実ったあとは、1週間以内に摘み取らないと、すぐに固くなってしまう。
というか、エダマメという食品として美味しく食べられる期間が過ぎてしまう。
だから私は、畝ごとに1週間ずつ時期をずらして種をまく。
毎年そうしている。
今年は9本の畝にエダマメを育てるつもりなので、夏には約9週間にわたって毎日この豆を楽しめる計算になる。
エダマメは、毎日食べても飽きることがない。
しかも、けっこういい品種の種を選んで買っているので、私の畑のエダマメは、スーパーや八百屋で売っているものより数段に味がいい(と思う)。
茹でるときは、多少アルデンテ気味にするほうが旨い。
柔らかくなるまで茹でてしまうと、食感も味もガタ落ちする。
暑い夏のビールのツマミに、エダマメほど合うものはない。
毎年のように私は、毎日ドンブリ一杯ほどの枝豆を食べる。
結果として繊維質を多く摂取するためか、異常なほど便通がよくなり、花粉症ならぬ過糞症になるのが常である。
1本だけ向きが違う手前の畝には、インゲンの種を埋めた。
1週間ほどして芽が出始めたら、地面に立てている3本の竹の間にネットを張ろうと思っている。
30株ほどが育つ予定だ。
この畝の端のほうには、キュウリも3株ほど植えるつもりである。
インゲンは、やはり天ぷらにして食べるのが旨い。
ただ、この豆は、すぐに飽きてしまう。
そして、実りの時期を迎えると、毎日バケツ一杯ほどの収穫があり、それが1ヶ月ほども続く。
ただ、そんなにインゲンばかりは食べていられないので、毎年のように私は、収穫の8割ほどを人にあげてしまう。
去年の9月26日に書いた記事の中でも紹介したが、私は3年前から去年まで、畑の中に竹を組んでドームを作り、それにインゲンのツルを這わせていた。
ドームの高さは2メートル以上あった。
なんでこんなものを作ったかといえば、動機は単なる「遊び」なのだが、私は昔から常に独創的でありたいという願望というか、独創性への信仰のようなものを持っており、このドームは、いうなればその発露でありデモンストレーションだった。
このようなオブジェにどれほどの独創性があるのかは疑問だし、世界中には同じことを考える人間がたくさんいるかもしれないが、少なくともこれは私のオリジナルである。
自分では、厳粛な農と、無用な遊びとの融合が産み出したユニークな物体だと思っている。
3年前、最初にこのインゲンのドームが私の思い描いたイメージ通りに完成したときは、大いなる自己満足に浸ることができた。
私はただの凡人だが、その時に私が味わった満足感や達成感は、芸術家が会心の作を創り上げたときに感じるであろうそれと同質のものだったかもしれない。
どの程度の作品を創造できるかなどに関係なく、私は私のイマジネーションの及ぶ範囲で、常にクリエイティヴであり続けたいと思っている。
ときには、自分でもけっこうユニークではないかと思うアイデアを写真に収め、記事に載せることもある。
ブログの記事を書くときも、やはり常に独創的でありたい。
したがって、これまで私は誰かの文章を盗んだことなど一度もないし、真似をしたこともない。
安易な受け売りなども決してしていない。
そのような浅ましい行為は、私の信条や信仰を貶(おとし)め、辱(はずかし)めるものだと思っている。
たいして気のきいた文章は書けないが、これからも記事を書くときは、いい歳をこいたオッサンとしての矜持(きょうじ)を持って、信条だけは守り続けるつもりだ。
そして、たまには自分でも納得できるようなクリエイティヴな記事をものして、ひとりよがりの、ささやかな自己満足を味わいたいと思っている。
とはいえ、原稿料をもらって雑誌などのために書くわけではないので、やはり、これからも私は、気の向くままにアホなことやら何やらをだらだらと書き連ねていくだけかもしれない。
それにしても、今日もまた、ずいぶん長い記事になってしまった。
そしてやはり、いつのまにやら脱線している。
このような、自分自身で読み返すのも面倒くさいほど冗長な文を、人に読んでいただこうというのだから、私もけっこうツラの皮が厚いのかもしれない。
などと自己批判を繰り返していれば、いずれそのうちに、歯切れのいい記事を書けるようになるだろう。
ならないかな。
最後まで読んでくださったあなたに、良いことがありますように。