戦国武将 徳川家康は 織田信長、豊臣秀吉に次いで天下を統一しています。
徳川家康は 1542年(天文11年)に生まれました。幼名は松平竹千代です。父親は三河岡崎城主 松平広忠です。
1547年(天文16年)に人質として現在の静岡県を統治していた今川義元のもとに送られました。
幼少時代を 人質として 過ごしましたが、僧侶の下で高度な教育を受けていたそうです。
1560年(永禄3年) 織田信長が桶狭間で今川義元の軍勢を破ったのをきっかけに、本拠地 岡崎城に戻りました。18歳のことでした。
翌年 織田信長と和睦し 清州同盟を結びました。
この同盟は 織田信長は 西を、徳川家康は東を攻めるという同盟です。互いの背後を守り合うことになり有効な軍事同盟でした。
1570年(元亀1年)本拠地を岡崎城から、浜松城に移しました。徳川家康28歳のことでした。徳川家康は それから17年間 浜松城を本拠地としています。二代目将軍となる徳川秀忠も浜松城で生まれています。
1572年(元亀3年) 三方原で武田信玄と戦い、大敗しています。この敗戦は 徳川家康の生涯でもっとも無残な敗戦でした。無残な自分の姿を絵師に描かせています。その絵は現在にも残っています。
その3年後の1575年(天正3年)織田信長と連携し長篠の戦で武田家を滅ぼしています。武田信玄は1573年に病没しており、武田軍の指揮を執っていたのは武田勝頼でした。もし、武田信玄がもう少し長く生きていたら歴史が変わっていたかもしれないですね。徳川家康は 滅ぼした武田家の重臣を家臣として迎え入れています。
1582年(天正10年)に本能寺の変がおきました。織田信長が明智光秀に謀反を起こされ死にました。(但し遺骸は行方不明のままです)
本能寺の変の時 徳川家康は40歳でした。
織田信長を倒した明智光秀でしたが、山崎の戦いで、豊臣秀吉に敗れました。 明智光秀は 農民のことを思い、農作業に迷惑のかかる平野での戦をさけ、籠城戦にしたため 敗れたといわれています。
明智光秀は 今でも 農民 領民に優しい武将だったと言われています。
明智光秀を破った 豊臣秀吉は その後 織田信長についで天下に大号令を下すのですが、その間に徳川家康とも戦争しています。
1584年(天正12年)に小牧長久手の戦いで 豊臣秀吉と徳川家康は対峙しました。この戦いは織田信長の後継者を巡り、豊臣秀吉と織田信長の二男 織田信雄が対立し、徳川家康は織田信雄に援軍する形で戦争になりました。しかし、本格的な戦闘になることなく 和睦しました。
和睦の結果 天下は 豊臣秀吉のものとなるのですが、朝廷からの官位は豊臣秀吉より徳川家康が上位と成り、のちに 豊臣政権での悩みの種となります。
豊臣秀吉が大阪で政務をとるようになったあとも、徳川家康は関東で着々と軍備を固めました。 豊臣秀吉の晩年 朝鮮に出兵していますが、徳川家康は朝鮮半島に出兵していません。
豊臣秀吉が 病没すると、徳川家康は 有力な戦国大名と政略結婚により親戚関係を広げました。これは 豊臣秀吉が遺した遺言違反です。
徳川家康は 豊臣秀吉の子息、豊臣秀頼を無視し 勢力を拡大しました。
それに 対して 五奉行筆頭の石田光成が 徳川家康と敵対しました。 ちなみに 徳川家康は五大老の筆頭でした。
その対立が 天下分け目の 関ヶ原の戦いに発展するのですが、結果は 徳川家康率いる東軍の勝利でした。
徳川家康は その後 大阪の陣で 豊臣家を滅亡させ 徳川政権を確立しました。
徳川家康は 戦いに明け暮れた生涯でしたが 天下太平の基礎を築いた功績もありますね。