バッチリ駐車出来ました
ところで、私の中之島中央公会堂に関する知識は
子供の頃、父から聞いたことです。
「中之島中央公会堂は株で儲けた人が寄付して出来た。
でもその人はその後大損して自殺した。」
すごく印象に残ったのですが、父は面白おかしく話す達なので、いつの頃からか少し盛っているかも?なんて感じていました。
今回のガイドツアーで、私が想像していた以上の物語を知りました。
パンフレットから引用します。
ひとりの大阪市民の寄付により完成した大阪市中央公会堂
公会堂の寄贈者・岩本栄之助
1906(明治39)年、家督を継いで北浜の株式仲買人となった岩本栄之助は、日露戦争終結後の暴騰相場で窮地に陥った仲買人仲間を救い、自らも莫大な利益を得ました。
「北浜の恩人」とたたえられるようになった栄之助は、1909(明治42)年、渋沢栄一が率いる「渡米実業団」に参加。米国の富豪の多くが財産を慈善事業などへ投じていることに強い感銘を受け、帰国後に大阪市へ百万円の寄付を申し出ます。
ところが、この寄付金をもとに始まった公会堂の建設工事が進む1916(大正5)年、第一次世界大戦の影響による相場で栄之助は莫大な損失を被ります。
寄付金を少しでも返してもらったらという声にも栄之助は、「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」としてこれを拒否。
その年の10月、39歳の若さで自ら命を絶ちました。
その後も建設工事は続けられ、栄之助が夢見た公会堂は1918(大正7)年11月に開館の日を迎えました。
以上引用
岩本栄之助さんゆかりの品々は自由に見学できる展示室に展示されています。
自ら命を絶つ日に北浜三越で撮影したという写真
写真を大きくして読んでみてください。
辞世の句(上)
落成奉告祭で栄之助に代わり当時4歳の長女善子から池上大阪市長へ公会堂の鍵が手渡しされる様子(下)
アインシュタインやヘレン・ケラーも訪れています。
特別室
天地開闢(てんちかいびゃく)が描かれている
ドームの下の絵は
仁徳天皇が民のかまどの煙を眺めている様子
鳳凰があちらこちらにデザインされている
柱 下は大理石、上は石膏に大理石風
辰野金吾が好んだ腰壁と大理石
床は引き詰めた後に化粧目地が施されている
建築は岡田信一郎の原案を基に、公会堂建築事務所、実質的には辰野片岡建築事務所により、全体構成と部分的衣装に手が加えられました。
公会堂のような赤煉瓦建築は当時「辰野式」と呼ばれていたそうです。
ランチも良かったです。
予約済みということで待たずに入れました。
魚介の分厚い切りっぷり。分かりますか
オムライス カレーでもOK
渋沢栄一の筆による文字
100年の時を刻む重要文化財でありながら、貸し室としても利用できる「生きた重要文化財」とのこと。
この日も貸し室は満室
大集会室では入学式が行われていました。
岩本栄之助さんもさぞお喜びの事でしょう
大阪証券取引所
右奥の黒い建物が岩本栄之助さんが写真を撮った北浜三越があったところです。