☘活字中毒のアジェンディスト占い師・Tokiwa

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母さんへ。
先日のたけのこご飯と天ぷら、おいしかったよ。ありがとう。

受けたくて受けた講座のお金を、
母さんから借りたお金を、
いつ返せるか分からないんだけど、
そういえば私は、「母さんは私のことを助けてくれない」と、
心のどこかで長いこと思っていたのにふと思い至った。

そしてその気持ちが、
かわいそうな私」の根源になっていたのだと、
ふと気付いた。
この「かわいそうな私」とは、
人によっては「悲劇のヒロイン」などと呼ばれるものと、
同義語と思ってもらって構わない。

記憶にぼんやりとある日、
近隣の大きな湖の近くまで家族旅行へ行っていたとき。
まだ末妹が生まれていなかった頃。
就学前の幼少期のある日。

真剣に運転する父さんの後ろの席で、
はしゃいでいた私は、
いろいろが度を越し過ぎて父さんを怒らせ、
通過点である森のどこかで、
車を降ろされることになった。

「ここがどこかも分からないのに
ここから歩いて帰れるわけないじゃん!」
といったことを、
当時の私は言ってたらしいんだけど、
まったく覚えておらず()

一人で車を前に立っていて、
落ち葉のような茶色い葉が地面に敷き詰められていた。
家族の中から自分という存在が切り離されたような感覚と、
少しして車に戻った自分が泣いていたことは覚えている。

そこから、この件については、
物心付く頃には忘れていたんだけど、
正直小学生の頃は、父さんへの殺意があった。
急にぶわーっと湧き上がることもあって、
なんだこれって思ったことは何度かあるけど、

その出所が長らく分からずにいたのだ。

アダルトチルドレンみたいなところは正直あるし、
反抗期らしい反抗期を態度で示したことはほとんどない。
「周りの人に置いていかれたくない」
という気持ちは、どこかで持っていたことがあり、
これは負けず嫌いという性格か?とも、
考えたことはあった。
でもどちらかというと、負けたくないというより、
ただ置いていかれたくなかったのだ。
これのおかげでこじれた人間関係が、
学生時代にあったものだから、
まったくなんて置き土産を持ってたんだと、思ったこともある。

それでも、父さんは他の姉妹よりも、
私とは映画やカラオケだったり、
卓球の練習などで職場にも連れて行ってくれることがあった。
(父さんの当時の職場に、卓球台があったのだ)

そう、当時の父さんの仕事は、バスの運転手だった。
運転には他の職業に携わってる人よりも、
そりゃウン倍気を遣ってたはずなのだ。
そりゃ実の子とはいえ、運転に支障をきたすと危ないと怒るよなと。
家族乗せて走ってるんだぜと。
無邪気だった自分を責めるのもまた違うとは思うけど、
愛を起点に考えたときに、
父さんを怒らせたのは私だということを、
いまでは納得できている。

それに、高校時代から何度か、
ほろ酔いの父さんが、
「あの日のことはすまんかったと思ってる」
みたいに言うことがあって。

まあそれで私はこの件を思い出したんだけど、
同時に、私もこの件は手打ちにしようよと、
少しずつ思えるようになったのだ。

で、だ。
その手打ちにしよう感は、
心の中で和解をしてみた感は、
あくまでも父さんに対してなのだ。

あの日の母さんは、私が車から降ろされてもただ見てるだけだった。
正確には、先天性障害のある弟と、
たぶんまだ歩けたかどうか微妙な年頃の妹を横目に、
ハラハラしながら見ていたのだとは思うんだけど。
母さんが何か言ってたか、とかも、覚えていなかった。

記憶の断片では、怒る父さんに何も言えない母さん、
みたいな図式しか思い浮かばなかった。
母さんは私を守ってくれないんだ、
助けてくれないんだ、という想いから、
「かわいそうな私」が生まれた。

ああ、あと、あれだ。
7才のときに、私はウィルス性の髄膜炎で入院していた。
時間制シフトの合間を縫って見舞いに来てくれた父さんには、
仕事があるししょうがないよね、みたいな気持ちでいたのに。
当時私と同じタイミングで、妹たちも入院していて、
母さんは妹たちに付き添っていることが多かった。
一人の夜の病室が怖かったのと、

死のニ歩手前みたいな日々と、
妹たちが選ばれて、選ばれなかった私!
みたいな気持ちもここで、生まれていたように思う。

この「かわいそうな私」は、
それからさまざまなシーンで、
うまくいかないときの私を都合よく悲劇のヒロインにしてくれた。

気が付けばお金がない、
片付けられない、
住みたい場所に住めない、
試験で結果を出せない、
買いたいものが買えない、
かわいそうな私。
選ばれなかった私。

で、こういうときの私は、
さらに都合よく、
愛起点で考えたときに、
母さんからもらっていたものたちを、
なかったことにしていたのだ。

私が高校受験で第一希望の学校に落ちたとき、
母さんは受験の結果を見届けてから、
私を高校近くのドトールへ連れて行ってくれた。
そこで紅茶とミルクレープを買ってもらったことは、
ただ見守っていてくれたことは、
一番忘れられない思い出として残っているのだけれど。
だけれども。

それ以外ある?みたいな勢いで、
妹たちとは仲が良い母さん、みたいな、
妹の大学受験や県外への仕送りはしてたのにね、
本当の私の第一志望だった、
留学できる高校受験はさせてくれなかったね、
みたいな、
私は下の子のことを考えたら妥協しなきゃいけないことがあって、

自由気ままに普通から外れて生きていて、
異質なものを見るような目で見られている、みたいな、
「私が勝手に」関係性を分断して考えて、
「私が勝手に」かわいそうな私で生きていたのだ。

それでも、私が社会人になりしばらくして、
実家を出た後は、
私が壊滅的な自炊スキルを持ってるとよく分かっていたから、
母さんはよくいろんなご飯を作って、自宅まで持ってきてくれた。
(一応ご飯を炊くことはできる!
揚げ物は危険なのでしない!
包丁やフライパンはたまに持つ!よ!)

えぐいくらい暑い日も、大雪の前後も。
私はどこかでそれらを、
あの日のかわいそうな私がいたから、
受け取って当然なんだ!
みたいに、「当たり前」に思っていなかっただろうか?
と、いまなら問うことができる。
もちろん、ありがとうとは毎回伝えていた。
それでもどこかで、
心の底から伝えていただろうか?と思うと、
やっぱり当たり前だと思っていたように振り返ってしまう。
それを選んでいたのもまた、私なのだ。

どこかで、
「母さんが助けてくれなかったせいだ!」
みたいに、言いたいような出来事を、
私は招いていたのではないか?とすら、思える。
思えてきては、いまは前向きに失笑している。
だってどこまでも、私の世界は私が作っているんだ。
私の人生は、私がいくらでもいつからでも変えられる。
それを本当の意味で、私は体感し始めている。

だからここで私は、
あの日の「かわいそうな私」へさよならを告げる。

私はかわいそうじゃないし、
悲劇のヒロインなんてもっとない。
誰かに頼ることは苦手だけど、
世界はやさしいことももう知っている。
私は私として気ままに生き続けるし、
いつかはどこかで死んでいく。

かわいそうな私になることへ時間を割いて、
楽しいことや心地良いことから迷子になる、
その時間が一番かわいそうだってことを、
もう知っている。

母さんが母さんでいてくれて、ありがとう。
いまではもうたぶん、あなたにとっては、
相当変わった考えであったり、
行動を選ぶ子でいるとは思ってる。
まあこれは、私が選んだことなので。
とりあえず生きてればいいやくらいに考えてもらえていると、
逆にありがたかったりするのです。

 

 

といったことを、冷静に言語化するために、

私は内観を学んできてよかったと思ってるし、

言葉の紡ぎ方を磨いてきてよかったと、思えているんです。