大河ドラマは、家康最大の危機である、三方ヶ原の戦いに突入しました

合戦は夕方から始まり、日没までのわずか2時間ほどで勝敗が決したと言われています

武田軍の死傷者が約200人に対し、徳川軍は2千人ということで、3万もの大軍を率いて西へ進軍してきたところを見るとかすり傷を与えた程度でした

ドラマの中で武田軍が綺麗な陣を敷いて待っているシーンがありましたが、先手からの一点突破の攻撃に特化した陣で「魚鱗」の陣形です
(総大将の首が狙われにくい)

一方、徳川軍は、兵数が優勢な側が用いる包囲殲滅狙いの「鶴翼」の陣形で応戦しており、陣形で見ても武田軍に完全に裏をかかれていました
(防御力に劣る)

これがドラマで描かれるかどうか分かりませんが、その後、唯一、成功したのが浜松城へ逃げ帰った後の「空城の計」という策です

そもそも空城の計は、わざと城の門を開けて敵を場内に誘い込んで殲滅させる策略ですが、武田軍は、そういった策の目的を知っていただけに、城内への突入を躊躇したようです

多くの重臣を失った家康ではありましたが、こうして窮地に一生を得ることとなるのでした


第十七回「三方ヶ原合戦」

うさぎの木彫りの像が出来上がってくるアニメーションからスタートします

個人的には家康と言えば、たぬきをイメージしてしまうのですが、このドラマでうさぎ=家康像が付いてきていますね
メディアの力って凄いですね

1572年
武田信玄が浜松にむけて進軍を開始します
徳川勢は、各々が身支度と共に死ぬかもしれないという心の準備もと行っていました

その準備期間のうちに、家康は木彫りで何かを彫っていました

また、岡崎城の信康、平岩、亀姫、瀬名、五徳らはいざという時には、後詰めでと覚悟を決めていました

そして、家康の号令と共に家臣団は雄叫びを上げるのでした
士気は決して低くはありません

信玄は3日に1つ城を落とす勢いで浜松に迫ってきます
まさに侵略すること火の如しです

難攻不落と言われた高天神城が呆気なく落ち、1ヶ月で浜松城の目と鼻の先に迫ります

信長の遣いで水野が徳川陣中に現れると、浜松城で信玄を向かい討てと伝えるのでした
ただ、織田の援軍は来ないのかという点に疑問が生じます

家康はいつもの場所でいつものように鷹狩りをしようと信長に伝えて欲しいと水野に話し、帰らせます

その場所に信長は現れます
「策は桶狭間、餌は家康、これしか手は無い」と家康が信長に話すと無言

信長は1ヶ月、徳川勢だけで持ちこたえなければならないし、兵は3千しか貸せないと言います

信長は「戦を楽しめ、俺とお前は一心同体、ずっとそう思っている」と家康に伝えます
「信玄を止めろ、俺は必ず(助けに)行く」
今は、その言葉を信じるしかありませんでした・・

その帰りに家康は岡崎城や築山に寄っていました
瀬名と語り合いながら、兎の木彫り像を完成させると、自分の身代わりとして渡すのでした

誰も戦はしたくないはずなのに、何故、戦がこの世から失くならないのか?
瀬名の言葉は、現代においても通ずる部分がありそうですね

織田から約束通り3千の兵を率いて佐久間信盛、水野勢が到着します

赤備えの舞台が浜松城から見える位置まで近付くと、休む間もなく動き始めると、浜松城の前を通り過ぎていきます

向かう先は織田勢の岐阜だとしても、その前には岡崎城があります

本多忠勝は撃って出れば必ず負けると言います
しかも織田勢は動かないと言います

家臣団からどうするのかと指示を求められる家康が悩んだ結果、出した答えは・・

地の利を活かして、三方ヶ原で武田勢の背後を突くというものでした
家康は浜松城から出陣し、武田勢を追いかけます

しかし、それこそ信玄の罠だったのです
三方ヶ原で陣を完璧に敷き、徳川勢を待っていたのでした
家康ら徳川勢は唖然とし、生唾を飲み込むのでした

程無くして、虎松が三方ヶ原の戦場の様子を見に行くと、そこでは徳川勢が大敗北を喫していました

そして、目の前を黄金の鎧を着た者が荷台で運ばれ、誰とも分からぬ首を武田兵がぶら下げています

その三方ヶ原合戦を次回、細かく描くようですね
勝ち戦ならともかく、負け戦の詳細を描くというのは新しいのかもしれません

また、「真」とタイトルに付いているところを見ると新しい視点で描かれるということなのかもしれません

負けて初めて得る何かがある
次回の放送を見て何を感じることとなるでしょうか?
ではでは、今日も一日頑張っていきましょう!