第五章 1997年~2007年 

   ( 社長業第二期 )

 

(56)組織団体との関わり ①

      ( 極真空手 )

 

私のこの社長業第二期では、

4つの組織団体と

深い繋がりを持つことになる。

それは当初の思惑とは異なり、

後に仕事に結びついたり

関りそのものが

会社の信用や宣伝、

更に私自身の学びに

繋がる事もあった。

 

この4つの組織団体との

出会い、関り、

そしてそこから得た影響や教訓を

組織別に書き残してみたい。

 

まずこの組織は、

私自身が全く気乗りのしない

出会いから始まり、

後に私個人のみならず

会社としても

関わることになる。

又私は、この組織から

人生勉強をさせてもらった。

 

「極真空手」

「ゴットハンド」や「牛殺し」

と言われた大山倍達総裁が創設した

全世界に広がる空手団体である。

 

この「トキワ人生を振り返る」で

綴った私がお家騒動から

急遽社長に就任した折、

唯一相談した方で、

トキワが C I を導入した際にも

力になってくれた武本俊会長。

 

それは今から30年前。

1992(平成4)年、

年明け早々のことだった。

「 萩原さん。

  極真空手のかつて

    世界チャンピオンで

    今度、浅草で道場を開く

    松井章圭という

    男がいるのですが

    その彼の後援会を

    私が創る事になったので、

    その副会長を萩原さんに

    お願いしたいのですが。」

 

私は「空手」の「か」の字も知らず

当然その世界チャンピオンも

失礼ながら全く知らなかった。

そのような状況から

武本会長には丁重にお詫びをして

お断りをした。

 

しかし会長は、

取り敢えず本人に

会社へ挨拶に行かせるから

会うだけ会ってほしいと言う。

平素お世話になっている会長、

無下に断るわけにもいかず、

ある日、松井章圭氏は来社した。

 

1時間ほどいたであろうか。

土産にワインを持参した彼は

後援会の件は一切持ち出さず、

それは実に落ち着いた口調で

自身の生い立ちや空手の話しをする。

今逆算すると当時の彼は28~29歳。

とてもその若さとは思えなかった。

そして帰りに一冊の本を私に差し出す。

「 宜しかったらお読みください。」

 

『我が燃焼の瞬間』

それは彼が執筆した本だった。

 

結局、武本会長に寄り切られる形で

とうとう私は後援会の副会長を

引き受けることになる。

ただその後、後援会は

「道場運営が軌道に乗るまで」

という当初の目的を

達成したことから

早、数年で発展的解散をしたので、

私と空手との繋がりは

再び途絶えていた。

 

数年後、松井章圭氏は、

大山倍達総裁亡き後、

極真会館の二代目館長に就任。

律儀な彼は、

その間、全日本大会や

世界大会の招待状を

毎回欠かさず送ってくれていた。

にもかかわらず、

私はいつも一筆添えて「欠席」。

 

ある時、

欠席ばかりでは申し訳ないと

私以上に興味のない家内を誘い、

初めて大会へ足を運んだ。

会場は千駄ヶ谷にある東京体育館。

招待者受付で招待状を差し出すと

やはり空手家であろう

ごつい若者が席まで

丁寧に案内してくれた。

 

初めて観る空手の大会。

笛をくわえ戦いを見守る

厳格な審判5氏。

中でも副審4氏は、

試合場の四隅に

左右の手には勝負を示す

紅白の旗を持ち

イスへ腰かけている。

戦う選手は互いにリスペクト、

礼節を重んじている。

そこに会場全体を引き締める

太鼓の音が響き渡る。

この独特の雰囲気に、

すっかりはまってしまったのは

私ではなく家内だった。

 

その熱はとうとう2人の子供を

(娘と次男)

空手道場に通わせることに(笑)

どこの道場に通わせたら良いか?

松井館長に連絡を取り

聞いてみると、

少年部の指導に特に熱心な

埼玉県支部 盧山道場

(埼玉県川口市・盧山初雄師範)

を紹介された。

 

空手音痴の私は、

後に知ることになるのだが、

現役時代は「ローキックの盧山」

と恐れられ、

第1回世界大会で準優勝。

極真会館の最高顧問を務める

誰もが恐れる

主席師範・盧山初雄氏の

道場だった。

 

通い始めて数か月くらい経過

したであろうか?

子供たちの審査会(昇級試験)に

一度くらいは顔を出してみるかと

軽い気持ちで私は、

家内共々道場へ行った。

 

「社長、今度食事でも

   いかがですか?」

盧山師範にお会いするのは、

子供たちの入会手続きの

付き添い以来2度目。

突然、師範に声を掛けられ

戸惑いと驚きが…。

松井館長から私の事を

聞いていたのだろうか?

 

結局、

1年も経たずして

とうとう好きになれず、

いやいや通う

2人の子供たちは退会(苦笑)

一方、なんの気なしに

道場へ見学に行った私が、

気がつけば盧山道場の

「評議委員長」になり、

後に松井派と言われる

「国際空手道連盟・極真会館」

を離脱した盧山初雄師範が

新たに立ち上げた組織

「極真空手道連盟・極真館」の

「審議委員長」に就任していた。

 

※ 松井章圭氏がきっかけで

  お付き合いを始めた極真空手と

  盧山師範。

  組織を離脱したその盧山師範と

  行動を共にするという

  平素、私がとても嫌う「筋違い」を

  私がするに至った

  重要なストーリーは

  ここでは割愛させていただく。

 

 青少年大会で「閉会宣言」をする私

    右側:松井章圭館長 

    左側:盧山初雄師範 

 

大会本部席:左より私

 郷田勇三最高顧問・松井章圭館長

 

その後、

各種大会始め審査会、合宿、委員会、

新年会、鏡開きなどの本部行事。

各都府県で開催される大会などに

立場上、その都度招待を受け、

土日祝日、GW、盆休みなど

休日はほぼ「空手漬け」に

なってしまった。

時にそれは平日に及ぶ事もあり、

家内からは咎められ、

又、社員の手前も私は

だんだん気まずくなっていく。

 

ちょうどこの頃、

盧山館長から

「 社長、この組織のグッズを作って

    販売してみませんか?

    組織も全国規模ですから

  きっとそれなりの売り上げに

  結びつくと思いますよ。」

 

私自身、

会社に寄与できることは

前述のような心境から正直、

大義名分も立つ

この上ないことだった。

 

Tシャツ、トレーナー、ジャンパー、

タオルなど、

組織のロゴマークをプリントして販売。

その後、組織のお中元やお歳暮、

更にはブレザー、パンツ、Yシャツ、

ネクタイなどのユニフォームまで

引き受ける事になる。

大会が開催される時には

オフィシャルスポンサ-として

会場で前出のグッズ販売。

社員には休日出勤してもらっての

販売だった。

これらは全て

トキワのイベント企画制作部の

売上として寄与していた。

 

この2002年~2007年の

約5年間は、

私のみならず会社にとっても

このようなお付き合いを

していた組織ではあったが、

色々な問題から

私は組織を離れることになる。

しかし私の社長業第二期で

かなりウエイトの高い出来事

だったことは間違いない。

 

又、盧山初雄師範との

約10年間のお付き合いは、

私にとって、

それまで経験したことのない

貴重な経験をさせていただいた。

 

それはトップを支え、

その片腕となる

「ナンバー2」の立場。

 

とても難しい立場ではあるが、

私からすると、

大変やりがいのある立場を

経験させていただいた。

これまで会社、外郭団体などで

トップの立場が多かった私が

ナンバー2の立場を10年間、

経験させていただいたことは

改めて、

「トップとはどうあるべきか?」

という立場違いから学ぶ

我が人生の大きな気づきになった。

 

『ナンバー2』

10年間の私の経験から

自分の反省も交えて

私なりに定義づけしてみる。

 

まず必須重要事項として、

そのトップが

自分自身から見て尊敬できるか、

あるいは好きも好き、大好きか、

これが大前提。

そこでその「トップの基本方針」には

いかなることがあっても

従わなくてはならない。

仮にその基本的方針に

同調できないのであれば

身を引くべき。

なぜなら物事というのは

全てトップが決めた「方針ありき」で、

その方針は話し合いで決める

などという問題ではない。

船頭の方針に全体が沿う。

そしてその結果次第では、

トップが最終責任を

取らなければならない。

このトップいてのナンバー2で、

ナンバー2は、

あくまでもそのフォロー役。

最終責任を取れない、取らない、

そんな立場の人間こそ

自分の想いや考えだけで

自分のいいように

主張をする(苦笑)

 

一方、その方針には従いながらも

物事が良い方向に進んでいくための

助言は必須。

トップは自分の考え方が全てと

思いがち。

「お山の大将」の嵯峨である。

つまりナンバー2に大切な事の一つに

全体像を見極めた

「冷静な判断」が大切で、

その判断には自分自身の願望や想いは

けして入れてはならない。

 

更に最も重要な事のひとつに、

トップと下とのパイプ役がある。

 

トップの方針をフォローしつつ

前述のように冷静かつ的確なる助言。

それはあくまでも助言で

決定権はない。

分をわきまえなくてはいけない。

困難な事は下との関係。

まずトップの批判を

下に言うことはご法度。

下からすると、

トップとナンバー2は、

2つ1セット。

そのように見ていたものが、

その構図そのものが

その時点で全く変わってしまう。

それなりの修羅場を

潜り抜けて来たトップと違い、

下はまず自分の立場だけで、

困っている事や要望を

ナンバー2に訴えるものだが、

その訴えが増すだけである。

一方、言い分はきちんと

聞いてあげなくてはいけない。

ただ方針に関しては

トップと異なる主張を

して来た場合にはその場で

はっきりと諭し、

「なるほど」と感じる事や

組織のためになる提案については

きちんとトップに伝えてあげる。

 

つまりトップと下のパイプ役となる

ナンバー2の役目は、

とても困難だが重要。

ナンバー2次第で、

物事が上手く行くも行かぬも

決まってしまうと言っても

過言ではない。

まさにそのカギを握っている。

 

世の中で成功している会社や

組織、団体は、

良きトップもさることながら

「あの組織にあのナンバー2あり」

 

一方、あってはならないナンバー2。

縁の下の力持ちであるべきが、

分をわきまえず

トップを立てられない

「俺が俺が」のナンバー2。

このタイプは自己顕示欲が強いので

得てして「口が軽い」。

「自分は知っているんだ」

と、人に言いたいがために

黙ってはいられない。

つまり言って良い事と悪い事の

区別がつかない。

ナンバー2という立場上、

中にはトップと二人しか

知らない事も当然あるので、

事によっては

「組織の機密事項」

にも関わらず…。

 

又、パイプ役を果たす為には

下から慕われなければならないのだが

それと異なるナンバー2。

このようなナンバー2をもつ

会社や組織団体は、

いづれ大きな問題を

必ず抱えることになる。

 

かつてこのブログでも綴った

企業の「番頭」。

この立場も又、

ナンバー2と言えるだろう。

 

私がこれまで見て来た

会社や組織団体の

「光るナンバー2」に、

共通している事がある。

それは自身の本音、本心はともかく

光るナンバー2は、

人前では常に「謙虚」に振る舞う。

なぜなら「謙虚」は敵を作らない。

ナンバー2が敵を作ると

パイプ役のみならず

立場そのものが成り立たない。

 

ただでさえ難しい「人間関係」。

そこにトップである

大なり小なりワンマンな大将を立て、

時に助言。

更に色々好き勝手なことを言う

下とのパイプ役を果たすことは

至難の業である。

が、その反面やりがいもある。

 

私はこの組織から学んだ

ナンバー2という立場に魅力を感じ

とてもやりがいを感じた。

機会があれば、

又、トライしてみたい

とさえ思っている。

意外と自分には合っているような

気がしてならない。

 

思えば、

かつての 都民信用組合の昭栄会。

会長の私を一回りも年上の 

池野利英社長が

ナンバー2の立場の副会長として

謙虚に私を支えてくださり、

それが会員たちの私に対する

絶大なる協力に結びついた。

加えて、会そのものが

活性化した。

あれこそ、

ナンバー2のあるべき姿で、

まさに「ナンバー2の見本」。

 

トキワとしても私個人としても

そんな多くの貴重な経験を

させていただいた組織、

「極真空手」だった。

 

(押 忍)